在華紡の経験―日本企業の海外経営における連続性と進化―

桑原哲也

日本の製造企業の国際経営の始まりは、明治末の紡績企業の中国進出に求められる。なお日本企業が中国に作った紡績会社は、在華紡といわれる。在華紡の経営を通じて、今日の日本企業の海外現地経営を考えてみたい。

第一次大戦直後には、3大紡績の東洋紡、鐘紡、大日本紡績をはじめとする主要な紡績会社の大半が、中国に紡績工場を作った。そして、1930年には、中国紡績業における設備の40%弱を日本人紡績会社が占めるに至った。中国紡績業において地位を確立するためには、何よりも日本の技術を移転し、競争上の優位性を築かなければならなかった。そのために、日本企業は、日本の工場で養成、訓練した、日本人社員多数を中国へ派遣し、長期に駐在させるとともに、管理的な地位のすべてにこれら日本人社員を配した。こうして、日本の工場を中国で再現することを企てた。これは、中国における欧米人の現地紡績工場の経営とは大きなちがいであった。

在華紡の先発企業であり、敗戦にいたるまで最大級の規模を誇ったのは、国内に2紡績工場を持ち大阪に本社を置く内外綿会社である。同社は、1911年に上海に工場を建設し、1924年までに同地に11工場を建設し、その後は製品の高付加価値化に力を注いだ。その間に青島にも、関東州にも紡績工場を建設した。 内外綿は当初より、中国人労働者を直接に管理するために、多数の従業員を駐在させた。中国における競争が激化する1920年代半ばには、合理化と、製品の高付加価値化のために、従来よりも一段と多数の日本人社員を駐在させた。上海における同社の駐在員数は、1926年に391人であった。この規模は、1937年にはやや増加して398人を数えた。この間に中国人労働者は著しく減少した。1925年に16000人いた中国人労働者は、1937年には12500人となった。一方で、日本人社員を多数投入して合理化を進めた。成年男子工員を若年女子工員に取り換え、労働者に占める女工の比率は、57%から70%へ高まった。工場労働者の構成における女子労働者の高い比率は、日本の紡績工場の特徴であったが、それをモデルとして合理化は推進された。女子労働者の賃金は男子工員の賃金よりも低廉であるので、生産コストを下げることができた。同時に、労働者一人あたりの受け持ち錘数(紡績設備の規模を表す単位)は1926年20錘から1937年には31錘へ増加した。こうした現場の技術力の向上を基礎に、製品の高付加価値化が速やかに進められていった。

ところで、内外綿は上海工場の管理組織の形成において、上述したように管理的地位にはもっぱら日本人を配置し、中国人労働者を労働者の階層においた。上海工場の支配人、すべての工場長、その下に位置する工務係、人事係、および現場第一線の管理者である担任者は、すべて日本人社員であった。中国人は、日本人の担任者のコントロール下で働く労働者としての地位を与えられたにすぎなかった。中国人への権限移譲は、行われなかった。日本人社員一人あたりに対する中国人が、1926年の39人から、1937年の31人へ減少したことはこの事情を物語っている。これは中国には適切な管理者人材が存在しなったということを意味しない。当時、一部の中国人紡績は急成長をしており、そこでは中国人による管理が行われていたのである。内外綿の現地事業所において、日本人と中国人の間には、管理するものと管理されるものとの区分が、厳格に作られた。中国人は管理者へは登用されなかった。この経営が、在華紡が帝国主義の担い手であるとか、植民地主義を実施したという解釈の重要な根拠となったと考えられる。ここに、在華紡の経営における限界がみられると考えられる。

敗戦により、日本企業はその海外資産を失ったが、1950年代後半からは再び、海外生産を開始した。その時も、戦前のやり方との連続性がみられ、多数の日本人を派遣、駐在させるやり方で、技術移転が行われた。しかし戦前とは異なり、現地人社員の教育、訓練、管理職への登用、昇進は、重要な課題として認識されるようになった。そして、ゆっくりとではあるが、現地人の管理者への現地国従業員の登用は進められていったのである。それは戦前の日本企業の海外経営に対する進化である。戦前の在華紡の経営が日本人のみで行われた一方で、戦後の経営者は、国内事業とは本質的に異なる経営が海外経営には必要とされるという観点をもって、現地経営に試行錯誤を重ねた。こうした下で、現地事業所の管理者の現地人化がすすめられた。こうした経過を踏まえて、現代の日本企業のグローバル経営に要請される課題は、本社における管理者の多国籍化へと深まっている。

参考文献
  • 桑原哲也「日本企業の国際経営に関する歴史的考察―両大戦間期、中国における内外綿会社―」労働政策研究・研修機構『日本労働研究雑誌』No.262,May 2007。

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