「借方」と「貸方」
中野 常男
財務諸表の一つに貸借対照表がある。貸借対照表は英語でバランス・シート (balance sheet) というが、これは資産の合計額と負債・資本の合計額とがバランス(平均)しているからである。簿記では左側のことを「借方」(debtor: Dr.)、右側を「貸方」(creditor: Cr.) という。借方(資産)と貸方(負債・資本)が対照表示されているので貸借対照表と訳されたのである。
しかし、「借方」と「貸方」という用語は、そこに含まれている「借」と「貸」の意味に囚われると、財務諸表やそれを作成するための企業会計の基本的ツールである複式簿記を修得する上での大きな躓き石になってしまう。
いま「商品を現金で購入する」という取引を考えてみよう。複式簿記の基礎を学習した人であれば、たとえば、以下のような仕訳を思い浮かべることができるであろう。
(借) 商 品 ××× (貸) 現 金 ×××
もっとも、初学者は、上記の仕訳例をみて大きな疑問を抱くであろう。自分が現金を支払って購入した商品がなぜ「借方」で、支払った現金がなぜ「貸方」なのかということである。ただし、今日の簿記教科書では、「借方」と「貸方」の意味にまったく言及していないか、せいぜい言及していても、「借方」と「貸方」を勘定の記入場所を示す簿記特有の用語であり、「借」と「貸」の意味にこだわるなという解説が行われているのみである。
しかし、「借方」と「貸方」という用語が生まれたのにはそれ相当の理由があるはずである。そこで、ここではその発生史的意味を明らかにしてみよう。
複式簿記の原型が誕生したのは、13?14世紀のジェノヴァやフィレンツェ、ミラノといったイタリア諸都市においてである。もちろんそれが当初から完全な形で突然変異的に出現したものではない。複式簿記の生成に結びつく会計記録は、ヨーロッパ中世の商人たちが、商業や金融業に伴う債権・債務について、その回収にまつわるトラブルを回避するために、それらを組織的に記録したことにはじまる。
たとえば、「商人Xが取引先のYに対して商品を掛売りする」という取引を想定すれば、XはYに対する債権(売掛金)について何らかの記録(証拠)を残しておく必要が生じる。そこで、Xは、Yに対する債権を記録するために、自己の帳簿にYの名前を勘定科目とする「Y勘定」(=人名勘定)を設ける。ただし、このとき、人名勘定では、取引先との債権・債務は、記帳を行う主体であるXの観点ではなく、勘定科目とされた取引先(ここではY)の観点に立って記録が行われる。すなわち、XのYに対する債権は、Yからみれば、YのXに対する債務、つまり、YはXに対して借り手(借方)の立場になるので、Xの帳簿に設けられた「Y勘定」の「借方」に当該債権が記録されるということになる。
すなわち、「借方」と「貸方」という用語は、複式簿記の生成に結びつく組織的な会計記録が行われるようになった初期の段階にあっては、記録の対象がもっぱら債権・債務に限られていたがゆえに、それ本来の意味を有していたのである。
しかし、その後の会計の歴史は、組織的な記録の対象が、当初の債権・債務から、それらを含めた財産の全体へ、さらに、財産の変動要因を明らかにする収益・費用へと徐々に拡大されていったことを示している。その過程は取引の完全複記を特徴とする複式簿記の生成過程そのものに他ならないが、現金の出納や商品の受払い、あるいは、給料や手数料の授受といった、債権・債務以外について、当時の商人たちは、どのような記録方法を採ったのであろうか。もちろんそこに債権・債務が存在しない以上、「借方」と「貸方」という用語を伴った従来の人名勘定における貸借記入の方法を放棄し、新たな記録方法を採用することも可能であった。しかし、彼らは、債権・債務以外についても、人名勘定におけ る貸借記入の方法をそのまま拡張して適用することを選んだのである。
たとえば、現金の出納を記録するために設けられる現金勘定は、現金の出納を代理する「現金係の勘定」に擬制される。つまり、現金係として「擬人化」(personification) されることにより、現金の出納は企業主(=主人)と現金係(=代理人)との債権・債務の関係に置き換えられた。現金の収納は、現金係への預入れ、つまり、企業主からみれば現金係に対する債権(=現金受領権)の発生(逆に、現金係からみれば企業主に対する債務(=現金支払義務)の発生)とみなされて現金勘定(=「現金係の勘定」)の「借方」に記入され、他方、現金の支払いは、現金係からの払出し、つまり、現金係に対する債権(=現金受領権)の消滅とみなされて現金勘定の「貸方」に記入された。
同様に、商品の受払いを記録する商品勘定も、「商品係の勘定」に擬制され、商品の受入れは、商品係への預入れ、つまり、企業主からみれば商品係に対する債権(=商品受領権)の発生(逆に、商品係からみれば企業主に対する債務(=商品引渡義務)の発生)とみなされて商品勘定(=「商品係の勘定」)の「借方」に、他方、商品の払出しは商品係に対する債権の減少とみなされて商品勘定の「貸方」に記入された。
したがって、冒頭に掲げた「商品を現金で購入する」という取引は、企業主からみての商品係に対する債権の発生(つまり、商品係からみた債務の発生)と現金係に対する債権の減少(つまり、現金係からみた債務の減少)という関係に置き換えられ、しかも、個々の勘定への記入にあたっては、既述のように、それぞれの勘定の勘定科目とされた「人」 (商品勘定は「商品係」、現金勘定は「現金係」)の観点から行われるので、結局のところ、商品勘定の「借方」と現金勘定の「貸方」に複式記入されることになったのである。
このように、当初は債権・債務の記録のために考案された人名勘定における貸借記入の方法が、現金や商品、あるいは、受取手数料や給料といった債権・債務以外にまで、かなりの「こじつけ」によって拡張適用された結果として、取引の完全複記という特徴を備えた複式簿記がその誕生をみることになるのであるが、反面、そこには現代に至るまで本来の「借」や「貸」の意味を失った「借方」と「貸方」という用語がつきまとい、初学者を悩ませる原因ともなるのである。そしてまた、「借方」と「貸方」という用語そのものが、複式簿記が創案されるに至った大きな動機が債権・債務の管理にあったということを物語っているのである。
Copyright©, 2003 中野常男
この「ビジネス・キーワード」は1999年12月配信の「メールジャーナル」に掲載されたものです。