キャッシュリッチ

森直哉

近年、数多くの日本企業が現金・預金を過剰に保有していると報じられることが多い。2016年度までの5年間でフリーキャッシュフロー(余剰資金)の累積額が57.4兆円であるのに対して、同じ期間のペイアウト(配当と自社株買い)は50.7兆円にとどまり、差額の6.7兆円が企業の内部にとどまっているという。このような現象は「キャッシュリッチ」と呼ばれている。

実際のところ、Pinkowitz et a(2006)によると、世界35ヶ国のうちで日本企業が最もキャッシュリッチの傾向にあり、総資産に占める現金、有価証券の割合が16.0%である。これに対して、アメリカの企業は4.4%であるから、際立った違いである。特に有名な事例は任天堂であり、同社は総資産の約60%が現金・預金もしくは有価証券である。

最も基礎的なファイナンス理論にもとづけば、企業が現金・預金を保有しても企業価値は高まらない。そもそも、企業は設備投資やR&D(研究開発投資)など、実物的な投資プロジェクトに資金を活用するのが本来の姿であろう。たしかに、現金・預金はビジネスに不可欠の決済手段ではあるが、余計に保有してもゼロの純現在価値(NPV)にしかならないと認識される。

さらに述べると、企業の経営者は余剰資金を自分自身の利得のために浪費するかもしれない。概念として、株式の「エージェンシー費用」とは、株主と経営者の利害対立を原因とする企業価値の減少である。たとえば、必要もなく豪華な本社ビルを新築するかもしれない。このようなデメリットに着目すると、現金・預金の純現在価値(NPV)はマイナスであるとさえ言える。そうであれば、Jensen(1986)の「フリーキャッシュフロー仮説」が示唆するように、余剰資金を株主に分配したほうがよいとされる。

では、企業のキャッシュリッチは、まったくファイナンス理論で説明がつかない愚の骨頂なのだろうか。必ずしもそうではない。現金・預金の保有は、エージェンシー費用に着目すると負の側面が強調されるが、株価のミスプライシングに着目すると正の側面が浮かび上がる。どちらも「情報の非対称性」が引き起こす現象であるが、正反対のインプリケーションが得られるところが興味深い。

企業の実態について、投資家は経営者ほどには情報を持っていないのが現実である。そうであるがゆえに、実際は高収益が見込まれる優良企業であっても、不当に低い株価が付けられるかもしれない。そのような過小評価で株式を発行することは、企業の所有権を外部の投資家に対して安売りすることを含意する。もし株式発行を原因とする損失が、それによって賄われる投資プロジェクトの利益を吹き飛ばしてしまうのであれば、投資プロジェクトと株式発行の両方を断念したほうがよいだろう。この意味において、株式発行は使い勝手の良い資金調達法ではないのである。

その点、内部留保は株価のミスプライシングから影響を受けない資金調達法である(ペッキングオーダー仮説)。そのため、企業は稼ぎ出した利益をもとに、あらかじめ現金・預金を多めに保有しておき、必要なときに取り崩そうと考えるかもしれない(財務フレキシビリティ仮説)。この考え方にしたがえば、多めに保有する現金・預金は、投資プロジェクトの純現在価値(NPV)がプラスである状況を逃さないためのオプションとして役に立つはずである。これがキャッシュリッチに対する好意的な説明である。

もっとも、大した理念もなく漫然と現金・預金を保有するのであれば、やはりエージェンシー費用の温床にしかならないだろう。大雑把に述べると、成長企業は有利な投資機会が多いため、将来を見越した柔軟性が重要視される一方、成熟企業は有利な投資機会が少ないため、エージェンシー費用の発生のほうが強く懸念される。したがって、企業のライフサイクルに応じてペイアウト(配当と自社株買い)を変化させる政策が合理的であり、それは現金・預金の保有と表裏一体の現象である。ファイナンス理論は日本企業のキャッシュリッチ現象を上手く説明できているだろうか。

  • Jensen, M., 1986, Agency costs of free cash flow, corporate finance and takeovers. American Economic Review 76.
  • Pinkowitz, L., Stulz, R., and Williamson, R., 2006, Does the contribution of corporate cash holdings and dividends to firm value depend on governance? Journal of Finance 61.
  • 日本経済新聞 「カネ余り日本企業を解く・危機の記憶、守りを優先」, 2017年12月9日.

Copyright©2019, 森直哉

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