トヨタ生産方式のサービス企業への応用可能性
石井 淳藏
トヨタ生産方式が病院経営に導入されて評判をとっている。日本では、トヨタ記念病院や刈谷総合病院が有名だ。もっとも、両病院ともトヨタ系列の病院なので、トヨタ生産方式が導入されるのも当たり前と思われるかもしれない。だが、トヨタとは無縁のアメリカの病院でもその導入成果が評判になっている。ハーバード・ビジネス・レビューで2005年度のマッキンゼー賞を受賞した論文は、それをテーマとしたものであった(スティーブンJ.スピア「トヨタ生産方式で医療ミスは劇的に減らせる」ダイヤモンドハーバードビジネス2006年8月号)。その論文では、アメリカのいくつかの病院においてトヨタ生産方式を導入することで、医療ミスが劇的に減少した事例が紹介されている。たとえば、次のような例はわかりやすい。
トヨタ生産方式導入事例
ピッツバーグのウェスタン・ペンシルバニア病院では、1日平均42人の手術を受ける患者がいる。手術にあたって血液検査が行われる。そのための採血は、看護師が検診のときに自分でやることもあれば、専門技師に頼むこともあった。しかし、別の用事が割り込んで、そちらに看護師の気が奪われてしまうと、だれもやらないこともあった。こうした成り行き任せのやり方のせいで、患者の6人に1人は、いざ手術室に運ばれる段になっても血液検査の結果が出ていないということが起こっていた。その遅れによって、手術スタッフの待機時間が生まれる。計算すると、待機コストは1分間あたり300ドルにもなるという。
そこで、採血・検査プロセスの改善が行われることになるのだが、こうした業務プロセス改善事例は、トヨタ記念病院や刈谷総合病院でも数多く聞くことができる。こうして、トヨタ生産方式、つまり現場のイニシアティブによる業務改善に対して、日米においてに注目が集まると共に、病院経営改革の切り札と見なされるようになってきた(猶本良夫「病院経営におけるマネジメントの新展開」神戸大学経営学研究科博士論文)。
トヨタ生産方式に潜む2つの思想
私は、トヨタ生産方式が病院経営に応用される際、そこには2つの思想が含まれていると思う。第1の思想は、現場での医療サービスの「統合性」を何より重視するという思想である。この方式と対照的な方式は、計画制御方式だ。たとえば、経営企画室などが改革の絵を描いて、それを計画に変え、そして現場で実行するという方式である。医療ミス逓減プログラム、患者満足プログラム、あるいは医療コスト逓減プログラムなどといった形でスタートする。しかしそれだと、現場での統一的な活動が保証されない。それぞれの計画に沿ってバラバラの指針が出て、活動に矛盾も出やすい。
一方、この現場でのイニシアティブで進む業務改善の場合、それを通じて、医療現場における統一したサービスとして具体化する。先の事例で言うと、血液検査プロセスを改善することで、?医療の質が改善し、?患者の満足が増進し、そして?資源の有効利用を通じて医療コストが逓減することになる。一石三鳥の効果である。
第2の思想は、「医師というプロフェッショナル(以下ではプロと呼ぶ)」の能力を最大限生かそうとする思想である。先の例でもわかるように、手術を含め、プロたる医師の能力をいつも確実に発揮できるよう、常に臨戦態勢に置いておくという狙いがそこにはある。
業務改善は、そのためにこそ行われる。しかも、さまざまに行われる業務改善についても、医師による患者への直接の医療サービス(手術とか診察とか投薬処方とか)は例外になる。医師による医療プロセスは、プロたる医師の自主裁量に任される。もちろん、マニュアルで医師の医療プロセスを規制するというのも避ける。プロとしてのイチローにマニュアルを与えて良いことはなにもなく、与えるというならイチローをマネジする球団経営者や現場の監督に、である。
こうして、医師は自身のプロとしての能力を十全に発揮することになる。しかし、無限定ではない。その医療プロセスは指標を通じて可視化され、その成果が一目瞭然の形で示される。そして、それを巡ってプロとしての医師同士、厳しい競争にさらされる。イチローを含め、それがプロの宿命だ。常にその能力は評価され、その評価が悪ければもちろんのこと再雇用はない。ここが、日頃の着実な業務改善を担うスタッフとの違いだ。スタッフの雇用は確実に守られ、病院経営者としてキャリアを積んでいくことができるのだ。
プロフェッショナル組織のマネジメント
病院経営における一つのカギは、プロをどう処遇するかにある。しかし、この課題は、大学、研究所、コンサルタント会社、金融会社、芸能プロダクション、ゲームソフトメーカー、大リーグの球団、…、等々にも共通する。プロの能力を十二分に発揮させることを可能にする業務改善運動とプロ同士の競争メカニズムは、これらプロフェッショナル組織には不可欠の条件だ。それを備えることで成功した組織はいくつもある。われわれは、その峰を仰ぎ見ることができる。だが、その峰に向けて組織をどう動かせばよいのか、それがことのほか難しい。号令をかけさえすれば動くというほど、組織は単純ではない。とくにプロ組織はそうだ。右と言えば左に動く組織なのだ。それをある理想に向けて動かすもうひとつの思想が、どうやら必要とされているようだ。
Copyright © 2007, 石井淳藏