戦略(strategy)

末廣英生

戦略という言葉は、今日、普通の日本人が普通に日常語として話し、理解する言葉の1つである。例えば、多様な読者を想定して発行されている新聞に「WHOのエイズ撲滅戦略」とか「我が国のアジア外交には戦略が必要である」などという見出しがおどることはしばしばである。

戦略という言葉は、普通の日本人の間に日常語として定着しているだけでなく、一部の日本人にとってはとりわけ重要な言葉である。例えば、この文章の読者の皆さんがそうである、会社の経営に関わっている人は、戦略は経営に成功する上で最も重要な事柄の1つである、そして自分は経営の実践者・専門家として戦略の重要性を正しく理解していると自負なさっているに違いない。

しかし、戦略という言葉は、それが普通の日本人の間で交わされるとき、果たして本当に話し手と聞き手の間でその意味が了解されあっているだろうか。あるいは、少なくとも会社の経営に関わる人たちの間でその意味が了解されあっているだろうか。

多くの日常語がそうであるように、戦略という言葉も、それが日常語として話されているときには、その意味が1つではなく、話し手と聞き手の間で何となく意思が疎通しているように見えて、実は通じていない場合がある典型的な言葉である。

日常語として話されている日本語として、戦略の意味を辞書に尋ねると、それは一見すると一義である。例えば、広辞苑(第3版)で戦略という言葉をひくと、それはstrategyという英単語の訳語であって、「戦術より広範な作戦計画。各種の戦闘を総合し、戦争を全局的に運用する方法。転じて、政治社会運動などで、主要な敵とそれに対応する味方との配置を定めることをいう」とある。

しかし、「戦争を全局的に運用する方法」というこの概念には、同じくらい重きをなす、しかし独立の2つの構成要素がある。1つは「全局的に運用する」方法であるから、1つの戦闘の作戦が問題なのではなく、複数の戦闘の作戦の体系が問題になっているという要素である。もう1つは「戦争」の方法であるから、敵ないし相手があって初めてその方法が定まるという要素である。

このことは、原語のstrategyの意味を英語の辞書で調べるとハッキリする。例えば、Collins Cobuild のEnglish Dictionary for Advanced Learnersでstrategyの項を調べると、原語には2つの異なる意味があることがわかる。第1は“A strategy is a general plan or set of plans intended to achieve something, especially over a long period.”というもので、直訳すると「戦略とは特に長期間で何ごとかを成し遂げるために立案された全般計画あるいは計画の集まりのことである」というものである。第2は、“Strategy is the art of planning the best way to gain an advantage or achieve success, especially in war.”というもので、直訳すると「戦略とは、特に戦争において、優位に立つあるいは勝利をおさめるのに最良の方法を、巧みに計画したものである」というものである。

このことは、英語では、strategyという言葉で表したい事柄に、互いに関係しない2つのことがありうることを示している。第1は、戦争のように敵がいようと、そうでなかろうと、それによらず長期間で何ごとかを成し遂げる為に立てられた計画なら、つまり「長期的な行動のための計画」ないし「さまざまな行動の為の包括的な計画」なら、それが戦略と呼ばれるということである。最初に例として挙げた「WHOのエイズ撲滅戦略」と言うときの戦略は、これである。第2の意味は、それが長期戦であろうと短期戦であろうと、それによらず敵に勝つために立てられた計画なら、あるいは「相手に対する行動のための計画」なら、それが戦略と呼ばれるということである。「我が国のアジア外交には戦略が必要である」と言うときの戦略は、これであろう。

普通の日本人が日常語として戦略という言葉を使うとき、そして経営に関わる人が経営の仕事のために戦略という言葉を使う場合ですら、この「長期ないし全体に関する」という要素と「敵ないし相手がいる」という要素のどちらか一方だけを意味し、他方を暗黙裏に無視している場合が多いように思われる。その結果として、聞き手が、逆に無視された方の要素だけを受け取ると、話は通じない。

そのような誤解が、日常生活や経営の現場で起きているだけでなく、戦略を研究する学問に関する普通の日本人の理解にもしばしば生じているように思われる。例えば、この文章の読者の皆さんのような経営にたずさわる人が、自分が直面している戦略の問題を科学はどの程度明らかにしているのだろうかと問うことがあるかもしれない。そして、大学で経営学を勉強してみようという気になるかもしれない。そのとき、皆さんは、大学で教えられている「戦略論」が何についての論なのか、それを正しく了解しているだろうか。

科学の世界では、説明すべき現象がまず先にあって、その現象を説明するために、例えば「戦略が実行されてそれが起こる」と想定するとその現象をうまく説明できるなら、その現象を研究する「戦略論」が出来上がる。結果として、出来上がった「戦略論」は、それが説明しようとしている現象を説明するのに「戦略」の2つの要素のいずれが関わっているかで、その中身ががらりと変わる。

例えば、皆さんが経営の戦略の研究としてまず思い浮かべるのは「経営戦略論」と呼ばれる分野の研究であろう。それが研究している戦略は、もっぱらその第1の要素だけから成る「長期的な行動のための計画」である。例えば、中央経済社の『経営学大辞典(第2版)』で経営戦略の項をひくと、それは「企業の長期的な目的を達成するための将来の道筋を、企業環境とのかかわりで示した長期的な構想」とある。「長期的な構想」とは「長期的な行動のための計画」である。「経営戦略論」は、この「長期的な構想」の構成要素を適切に分類・リストし、多くの企業についてそのあり方と企業業績を調べることによって、その間に偶然とは言えない安定的なパターンがあるかどうかを調べている。

ところが、同じく経営の戦略の研究として広く知られているものに「競争戦略論」があるが、それが研究している戦略は、もっぱらその第2の要素だけから成る「相手に対する行動のための計画」である。例えば、「競争戦略論」の古典といわれる『競争の戦略』で、その著者Porterは「競争戦略とは、会社が自社の市場地位を強化できるよう、うまく競争する仕方の探求である」と述べている。「競争する仕方」であるからには、競争する相手があって初めてその仕方の「うまさ」が論じられる。実際、Porterは、この本が「昔から経営者の関心の的であった次のような質問・・・わが社の業界、またはこれから参入しようと考えている業界における競争の要因は何か。競争相手はどんなアクションをとってくるだろうか。それに対してベストの対応策は何だろうか。我が業界はどの方向に動くのだろうか。どうすれば、長期的に見てベストの競争上の位置を確保できるのだろうか」といった質問に解答を与えるための分析技法を研究したものだと述べている。

大学では、「戦略」の第1の要素が主な役割を果たす「経営戦略論」のような分野の研究も、第2の要素が主な役割を果たす「競争戦略論」のような研究もともに行われている。もちろん、これは極端に単純化した分類であって、経営学が取り扱う戦略現象の多くは、第1の要素と第2の要素をともに備えた、日本語の日常語の意味での戦略、つまり「相手に対する長期的な行動のための計画」である。

ところが、大学で研究されている現象に、「長期的な行動のための計画」でも、「相手に対する行動のための計画」でも、あるいはそれらをあわせた「相手に対する長期的な行動のための計画」でもない戦略が関わっているものがある。つまり、戦略には、辞書には載っていない第3番目の意味がある。

それを、例を挙げて、具体的に示そう。お母さんが2人兄弟におやつの飴を与えるのに、与えるべき飴玉は、同じ大きさの小粒の飴玉9個と、その4倍の大きさの大粒飴玉1個の計10個しかない。飴の量としては、小粒の飴が13個あるのと同量である。したがって、残念ながら平等には与えられない。そこで、次のやり方で兄弟に自主的に飴を配分させることにした。兄弟の前に、左から右に飴玉を10個並べる。大粒飴玉は右端に置く。それから、兄、弟、兄、弟の順に交代で、左端から飴玉を自分のものにできる。ただし、自分の番にとれる飴玉の個数は、1個か2個のいずれかでなければならない。兄弟はどう行動するだろうか。

それは、実際にやってみれば分かることである。筆者は、この飴の配分問題を少し単純化したものについて、学生にそれをやらせてみたことがある。その結果は驚くほど安定的なパターンを示した。やらせてみた172ペアーのうち85%に当たる147ペアーが特定のパターンを示した。そのパターンをこの飴の配分に手直しして当てはめると、9個ある小粒飴は、兄が1個とり、ついで弟が2個とるということが3回続き、その後で最後に兄が大粒飴をとって終わる、というものになる。

ここで、兄弟は、それぞれ第1の要素と第2の要素を併せ持つ意味での戦略、つまり「相手に対する長期的な行動のための計画」を立てる必要に迫られることに注意しよう。例えば、兄は、第1に、10個の飴を取り合うのに最低3回は自分の番が回ってくるので、行動の計画は「長期的」でなければならない。第2に、最終的に自分がいくらの飴を手にするかは、自分の行動だけでは決まらず弟の行動にも依存するので、行動の計画は「相手に対する」計画としてたてねばならない。

兄弟にとって、自分が考えるべき行動計画に戦略の2つの要素がともに関わっているということから、採用できる計画の種類はたくさんになる。そして、兄弟が飴を取り合う仕方の可能性もたくさんある。実際に数え上げると89通りの終わり方がある。にもかかわらず、上で紹介した特定のパターンが安定的に起こるという事実は、「相手に対する長期的な行動のための計画」を、兄も弟も、安定的に決心できることを示唆している。

なぜそうなるのだろうか。そのことに、実は、「長期的な行動のための計画」でも、「相手に対する行動のための計画」でもない、第3の戦略が関わっていることがわかる。それを、少し丁寧に示そう。

まず、観察された行動パターンに関わると思われる、この飴の配分問題で第1の要素と第2の要素を併せ持つ意味での兄弟がとりうる戦略について成り立っている、次の3つの事実を証明できる。第1に、兄には、弟がどのような行動に出ようとも最低3個の小粒飴と右端の大粒飴を手に入れ、結果として小粒7個分相当の飴をとることができる戦略が存在する、そしてその戦略によると先手では必ず1個の小粒飴をとる必要がある。第2に、弟には、兄がどのような行動に出ようとも最低小粒飴6個相当分の飴をとることができる戦略が存在する。第3に、もし、兄がここで言う戦略に従い、弟もここで言う戦略に従うと、まさに上で報告した観察結果が起こる。(これらの事実は、数学的に証明できます。興味のある読者は証明してみてください。ヒントは、飴取りの展開に応じて生じる「残っている飴玉数」を、3で割った時の余りが0か1か2かで分類することです。)

この3つの事実によると、兄弟がここで言う戦略に従うことにしたのはなぜかをうまく説明できれば、観察された行動パターンを説明できたことになる。これは、兄弟が安定的に戦略の決断ができたのはなぜか、というもとの問いに答える上で、その決断の内容をここで言う戦略に絞って考えれば良いことを示唆する。例えば、兄は、ここで言う戦略に従わず、小粒飴をできるだけたくさん取った上で右端の飴を取るつもりで、先手で2個の小粒飴をとるということをなぜしないのだろうか。

その理由を考えるに、まず、先手で兄が2個をとった場合に残り8個の飴を取り合う問題について、弟には、兄がどのような行動に出たとしても最低3個の小粒飴と大粒飴を手に入れることができる戦略が存在し、兄には最低小粒4個分相当の飴をとることができる戦略が存在する、ということを証明できる。

兄がこの事実に気がついたなら、次のように推論するのは自然である。すなわち、もし自分が先手で2個をとると、弟にこのような強力な戦略があるからには、弟は「兄はこの最低小粒4個分相当の飴をとることができる戦略で、確実にその小粒4個分相当の飴を取りに来る」と想像するだろう。ならば、弟としては、最低3個の小粒飴と大粒飴を手に入れる以上のことは望むべきではなく、この強力な戦略をとるであろう。その結果、自分が先手に2個をとると、その後は小粒飴4個を手にすることで終わるという手痛い目にあうだろう。それは、小粒飴をできるだけたくさん取った上で右端の飴を取るつもりで、先手で2個の小粒飴をとると、結果として小粒飴6個に終わることを意味する。だから、先手にとる小粒飴は、やはり1個にとどめるべきである。

この兄の推論の中で最も重要な役割を果たしているのは、もし自分が先手に2個をとったら、その後自分が行動する上での戦略は「最低小粒4個分相当の飴をとることができる戦略」であると、弟が想像するだろうと、兄が考えることである。

この、「先手に2個の小粒飴をとった後の兄の戦略」は、兄が自分の行動のために立てたものではない、という事実に注意しよう。兄自身は、実際観察された様に、先手に1個をとる戦略にしたがって行動しようとしているのだから、そのような戦略は不要でさえある。

これに対し、日本語の日常語としての戦略も、英語のstrategyが指す「長期的な行動のための計画」も「相手に対する行動のための計画」も、それに従って行動する人が、自分の行動の必要のために、それを自分で立案するのである。

上で詳しく紹介した例は、戦略には、日常語としての戦略の意味として普通は意識されていない「他人によって考えられたある人の行動計画」という戦略の第3の意味があること、そしてその第3の意味での戦略が、そのある人が自分の行動のために自分で立てる計画という日常語の意味での戦略の決心を引き起こす原因になる、ということを示唆している。つまり、我々が日常語の意味での戦略を安定的な現象として認識できることのコインの裏側には、辞書には書かれていない第3の意味での戦略の存在がある、ということを示唆している。

「他人によって考えられたある人の行動計画」ということが、実際に日常語としての戦略とりわけ「相手に対する行動のための計画」が偶然でなく選ばれる原因と言えるかどうかは、戦略研究の前提として、その基礎研究として、独立に研究する価値と必要性とがある問題である。この問題を研究する基礎科学はゲーム理論と呼ばれている。

2005年のノーベル経済学賞は、このゲーム理論の研究で顕著な功績を挙げたSchellingとAumannに与えられた。そして、それを実際に読まれた読者も多いと思うが、ノーベル賞発表直後の全国紙に掲載された両人の業績解説は、どれも「冷戦構造のような繰り返しゲームにおける、長期的な協力の価値と実現可能性を示したこと」というものだった。それは、第2の意味での戦略に関する研究成果である、と言うことである。

ゲーム理論研究者はこの記事に首をかしげたに違いない。多様な業績のある研究者について、彼らのどの業績が主かを言うことはそもそも難しい。この2人のノーベル賞受賞者についてもしかりである。しかし、ゲーム理論におけるこの両人の最大の貢献は、上で述べた、人間行動を説明する上での、「他人によって考えられたある人の行動計画」という、戦略ということの第3の意味とその役割を明らかにしたことである。それは焦点の理論ないし、共有知識の理論と呼ばれている。

2005年のノーベル経済学賞にまつわるこの的はずれの新聞記事は、普通の日本人にとって、戦略という言葉が曖昧に理解され、しかも曖昧なまま万人に了解されているかのごとく思われていることを、はからずも示したと言えるかもしれない。

Copyright © 2006, 末廣英生

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