自己奉仕的バイアス(self-serving bias)
日本版SOX法は、その目的を達成できない(サーベンス・オクスリー法および日本版SOX法がどんな法律であるかは、ここでは省略する。)。断言する。今、この法律により、わが国の上場企業は様々な要求を満たすべく条件を整えているだろう。しかし、ここで解決を要求されている問題が、その法律の枠外で起こっていることに端を発していたら、それは法律では解決できない。
それでは、その法律がなぜ制定されたかを考えてみる。それは、多くのコンサルティング会社から数々の賞賛をもらったエンロンやワールド・コムの事件がなぜ起こってしまったのかを考えることと、ほぼ同じはずである。
利益は経営者の意見である。それが分っていれば、「会計は科学であり、1円の間違いも存在しない。」という主張は出てこない。会計はあいまいである。会計の領域で見積りが入る領域(たとえば、繰延税金資産の回収可能額や減損金額の大きさなど)では、その大きさが経営者の意見で異なってくる。したがって、経営者の意見が企業の利益額を決めている。そうすると、その意見に含まれている裁量の大きさが、会計士が判断しても「可能」だと認められる大きさであるうちは、問題が発生しない。問題は、経営者の意見に含まれている裁量と会計士の判断が異なったときに発生する。そこで経営者が「このぐらいはいいでしょう?」と持ちかける。監査をしている会計士は、来年、挽回すれば何とかなるだろうと判断して「まぁ、そうですね。これくらいはいいですね。」と自分の判断を誤らせてしまう。次年度もダメで、塵が積もっていく。最初に、「それはダメです。限定付適正にします。」と自分の意見を固持しようとするなら、その会計士の明日はないのである。クライアントに気に入られたい。給料をもっと多くしたい。そんな願望が存在しているのである。生まれながらにして、悪者は存在していない(注、いるかもしれない)。しかし、悪者は存在してしまうのである。それが、エンロンとワールド・コムの事件である(注、事例は異なっている)。
「自己奉仕的バイアス(self-serving bias)」とは、「無意識のうちに、私たちは自分がかわいいと思い込んでいる」ことを意味している。自分は能力があると思い込んでいるのである。これは、数式では証明できない。数式では証明できないが、事実、そのような事項が観察されるのである。心理学の領域の文献を見れば、そのようなケースを扱った論文に出会う。これらの論文は、次のような検証過程をとる。まず被験者を2つのグループに分け、そしてそれぞれのグループに同じ1つの事象に関する資料を読ませ、その後の行動を分析するというものである。たとえば、2つのグループとは、被監査企業に雇われている会計士とその企業と取引がある他の企業に雇われている会計士、あるいは自動車を運転していた被告とバイクを運転していた原告、というような例である。
結論は明確で、同じ1つの事象に関する資料を読んでいるにもかかわらず、相手に説得的な論拠よりも、自分に有利な論拠が、事象全体を支持していると被験者は解釈する。つまり、被監査企業に雇われている会計士はその企業と取引がある他の企業に雇われている会計士よりも、資産の金額を大きくする傾向が見られたし、自動車を運転していた被告の提示した賠償金額は、バイクを運転していた原告よりも低く抑えられていた。しかし、被験者を2つのグループに分ける前は、そのバイアスはもっと小さかったのである。これらの結果は、われわれが無意識のうちに情報を歪めてしまう作用があることを示している。と同時に、それは、監査人が被監査企業に雇われている状況を意図している。つまり、被監査企業から報酬を得ている会計士は、被監査企業の悪口を言えないのであり、それを言ったら次の職は断たれてしまう。何年間の後、ローテーションを行って、担当企業を代えて同じである。自己の正しい意見を言ったら、監査人の市場から排除されることは変わらない。被監査先業に企業に利益を拡大させる方法を指導しながら、公平に財務諸表を監査するという行為が可能かを考えてほしい。それが、もしも可能だとしたら、裁判所は要らないのである。
会計士学校で倫理問題を講義しても、まったく無駄である。日本版SOX法は意義のある法律であるが、問題を見誤っている。司法試験の合格者は、その後、裁判官、検察官、弁護士と分かれる。公認会計士試験も、合格した後、こんな形で分かれたらどうか。証券市場の監査人は給料を証券市場から貰い、税務署員のように監査会社をみると少しは変わるだろう。全く異なった立場からのアプローチが必要なのである。
Copyright © 2006, 後藤雅敏