M&A 市場の役割

加藤英明

日本経済新聞連載、私の履歴書の中で、シダックスの野村監督がこう書いている。自分の対戦した中でもっともすばらしい投手は稲尾だった。彼には投球の際に目立つクセがなかったので、打つのが本当に難しかった。そこで、 16 ミリカメラを借りて徹底的に研究した。そうしたら、小さなクセに気がついた。それからは稲尾の球を打てるようになった。いまでこそ、投手のクセを見抜くのは当たり前、データを使った試合運びも当たり前だが、当時、科学的な分析に基づいた野球をしていたのは、野村監督ぐらいだったのだろう。野村監督のやったことは、ファイナンスでいう裁定取引である。皆が気づいていない価格の誤り(投手のクセ)に注目し、それを利用して取引(打撃)を行い、高い利益(高い打率やホームラン)を得る。勿論、リスクがないわけではない。投手のクセ(価格の誤り)の見極めが間違っていれば、三振(大損)をすることになるだろう。裁定取引をするには、不断の努力と精緻な分析が必要なのである。昨今、資本市場における裁定取引に対して、どちらかというと批判が集まっているが、これが大きな誤りであることはこの例からも明らかだろう。

M&A 市場における経営権争奪戦も裁定取引の一つと考えられる。無能な経営者によって運営されているために割安に放置されてしまっている株(価格の誤り)に対して、 TOB をかけて経営権を奪い、より効率的な運営によりその企業を再生させる(株価の是正)。 M&A 市場が生きているのか、死んでいるのかによって、企業経営者の意識は異なる。たとえ敵対的買収の件数が少なくても、生きた市場であれば、経営者は規律を持った経営を行わざるを得ない。結果として、企業は進化する。勿論、経営者の規律付けを行っているのは、 M&A 市場だけではない。厳しい競争にさらされている家電メーカーや自動車メーカーなどは、製品市場からの規律付けを余儀なくされる。こういった産業では、 TOB による経営権争奪はおきにくい。一方、製品市場からの規律付けが少なく、守られている規制産業では、 M&A 市場からのプレッシャーは非常に大切である。

野村監督のデータ野球がいまや常識となり、野茂、イチローがメジャーで大活躍ができる時代になった。日本の野球が進化をとげ続けたように、企業もその存続をかけて進化をし続けなければならない。国内市場だけの論理で守られているといつか、メジャーリーグでの戦い(グローバルな戦い)を余儀なくされたとき、生き残ることは至難の業であり、そのときに割を食らうのは、他ならぬ従業員、資金提供者である株主ばかりでなく、日本企業が衰退するという意味では、最終的には我々日本国民全体の損失なのである。無能な経営者に、従業員のために株主には犠牲になってもらうなどという言い訳を言わせてはならない。何をやっていても安泰な企業経営などあり得ない。競争にさらされながら、創意工夫をして企業を進化させる努力をしている企業が存続していくのが資本主義である。その際には、従業員はもちろんのこと、資金を提供してくれる投資家にも十分な説明をして、理解してもらう必要がある。 M&A 市場は、経営の良い企業を良いとし、悪い企業を退出させるためのメカニズムであり、我々の経済システムの重要なパーツである。間違ってもそれを不必要に規制して、悪者扱いすることはやめるべきであろう。

Copyright © 2005, 加藤英明

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