コンピテンシー
髙橋潔
1990 年代から、成果主義導入の動きと時期が重なるように、コンピテンシーという言葉をよく耳にするようになった。西暦2000年代の現在では、「コンピテンシーとは何だったのか」という疑問も出始め、すでに過去のものとなってしまったようにも感じられるが、それでいて、今でも気になる言葉である。
コンピテンシーとは何か。よく知られた定義は「高業績者の行動特性」となっている。潜在能力やポテンシャルではなく、高い業績を示す人が実際に発揮している、他の人が見ても分かるような「行動」上の特性に注目するのが、コンピテンシーだと思われている。が、これはコンピテンシー概念の一面をとらえているにすぎない。たとえば、コンピテンシー研究の嚆矢たるリチャード・ボヤティーズでさえ、「動機、特性、技能、自己像の一種、社会的役割、知識体系などを含む個人の潜在的特性」(Boyatzis, 1982)と定義しており、潜在特性をはっきりと視野に入れている。では、なぜこのような混乱が生まれてきたのか。
そもそもコンピテンシーは、あっと驚くインスピレーションから火が点いた。そのきっかけは、 C.K. プラハラードとゲイリー・ハメルが提唱した「コア・コンピタンス」(Prahalad & Hamel, 1990)である。コア・コンピタンスとは、「企業が自社ならではの価値を顧客に提供するための中核的な力」を意味する企業の競争戦略であって、個人属性であるコンピテンシーとは似て異なるものだ。しかし、コア・コンピタンスがあまりに普及したために、企業の特性であるはずのものが、個人の資質としてのコンピテンシーにアイデアの素を与えたのはまぎれもない事実だ。
そして、コンピテンシーの用語が、使われる場面ごとで異なっていることにも目を向ける必要がある。たとえば司法では、心神が耗弱・喪失している場合の「責任能力」を指している。臨床場面では、日常の活動や身の回りの世話を「自力」で行なうことができる身体・精神能力をさす。教育場面では、教科・科目の成績だけではなく、数学的センスや英語コミュニケーション能力などといった、勉学に結びついた総合的「学力」を示す。そして産業場面では、職業上で「有能」な人物が保有する優れた知識・技能・能力や、高業績者が示す行動面での特性を指し示している。このように、コンピテンシーの用語は状況ごとに意味が異なっているのだから、正しく理解するのはそもそもむずかしい。しかし、それに過度に神経質にならないことが肝要だろう。
1990 年代以降、職務の内容はどんどん多様化してきた。工場における生産技術職のような定型的な職務が減り、コンピュータや情報技術を介して、 1 人の従業員が多様な内容の仕事をこなさなければならなくなり、また、ハイクオリティの商品やサービスを提供するために、チームワークを要するグループでの業務がますます重要となってきた。その結果、アメリカにおいては、職務分析を通じた職務の格付けや給与システムが機能しなくなった。職務の価値や会社に対する個々人の貢献を判断するために、職務に焦点をあてた分析手法が役に立たなくなってきたというわけだ。であれば、人物寄りの分析・評価手法が重視されてくるのは必然であり、それがアメリカにおけるコンピテンシー・ブームにあたる。
一方、わが国においては、 1990 年代以降、企業の競争力を維持する方法として、 成果主義人事制度がさかんに導入された。処遇に年功色を払拭し、人事評価での業績・成果のウェートを高め、それに応じて格差をつけていこうとすれば、評価の信頼性・公平性が厳しく求められる。そのために、成果に関連した人材の行動・能力評価基準として、コンピテンシーがクローズアップされてきた。
だが、考えてほしい。給与を決める要素として、ジョブ(職務)から離れ、年功と手を切り、成果を意識しながら人物寄りの評価を行おうとしたとして、いわゆる「行動」なのか「能力」なのかが悩みの種なのだ。発揮された行動に目を向け、 360 度フィードバック・ツールなどを使ってコンピテンシーを評価測定していこうと思えば、行動評定は正確になるものの、瑣末な行動特性の束に埋もれて身動きが取れなくなる。反対に、潜在能力から職務遂行能力までを含めてコンピテンシーを考えれば、人間モデルとしての深さや豊かさがあるものの、目に見えないものを評価するむずかしさがあだになって、評価要素があいまいになってしまう。このジレンマを解消しなければならないのだ。成果をベースにした今後の能力評価のあり方は、この悩みの先に見えてくるだろうから、人事制度に問題を抱えている企業は、それぞれに自力で解決策を探る必要がある。コンサルタントへの丸投げや先送りはできない。
Copyright © 2005, 高橋潔