アート思考

佐藤正和

アート思考(Art thinking)は近年、芸術家思考が芸術以外の場面においてもクリエイティビティを向上させることで注目されています。芸術家の創作過程、思考方法等をイノベーションや価値創造の場面において応用することで、既存ビジネスの枠を超えた革新的な問題解決や独自性のある問題提起を生み出すアプローチとして期待されています。

アート思考の歴史は2000年代後半から始まります。2008年頃、フランスのビジネススクールESCPのシルヴァン・ビューロゥ氏が「Art Thinking Improbable」と呼ばれるプログラムを開始しました。これは、起こりそうもないものを確実に生み出す方法を概念化したワークショップであり、芸術家の創造性をビジネスに取り入れる試みでした。同時期、スイスのLorange Institute of businessの教授で「The Strategy of Art」を執筆したイェルク・レッケンリッヒ氏は、ビジネスとアートをつなぐ取り組みを行いました。彼は、アート思考を「インスピレーション」「直感」「想像力」の3つのプロセスからなると定義し、創造性の表現方法を探求しました。また、ニューヨーク大学美術学部の助教授であるエイミー・ウィテカー氏は、著書『Art Thinking』においてアート思考を「Art thinking is a process not of going from point A to point B as well as possible but inventing point B. ( アート思考とは、A点からB点まで、できるだけいい方法で行く方法ではなく、B点を発明するプロセスである。) 」と定義付けました。

いずれにおいてもアート思考は自己の内なる興味や関心を出発点とし、既知の軌跡を辿るのではなく、未開の道を切り開くことを目指します。一方、スタンフォード大学での実践に起源を持つデザイン思考は、顧客の課題を理解することを出発点とし、既存の知識やリソースを活用して効果的な解決策を考案するアプローチで、両者は起点が異なります。また、アート思考は既存のパラダイムに制約されない革新や新しい概念の生成が求められる場面で特に適しており、新しいビジネスモデルの構築や、個人や組織がその価値観や理想に基づいて課題や価値に関する固定観念を崩すのに有用です。一方、デザイン思考は明確な顧客ニーズや解決すべき問題が存在する場面で有用です。例えば、既存の製品等を改善する際や、チームが特定の課題に効率的に取り組む必要がある状況に適しています。つまり、アート思考とデザイン思考はアプローチや焦点が異なるものの、状況に応じて補完的に活用することが可能でどちらも革新的な価値創造において重要な役割を果たします。

アート思考の具体例としてアップルのiPhone開発が特に有名です。創業者スティーブ・ジョブズのビジョンやアップルの価値観を起点とすることで、単に顧客のニーズに応じるのではなく、むしろ通信手段を超えた新しい顧客体験を実現しました。iPhoneはその革新的なデザインと機能で大きな成功を収め、新たな市場を創出する原動力となり、アート思考がいかにして伝統的な工業製品開発のパラダイムを超えて革新をもたらすかを示す優れた例となっています。また、自動車メーカーのマツダでは、車を「心が通う生き物のような存在にしたい」という「人馬一体」の哲学のもと、さまざまな動物の動きを模写し、金属を削ってモデル化するなど、温かみのある美しさを研究しています(延岡,2021)。アート思考は、強い信念に基づいたオリジナリティあるモノを生み出すことで人々を惹きつけ結果として新たな顧客や市場創出をもたらすことを目指す考え方だと言えます。

最後に、日本と海外におけるアート思考を比較すると文化的背景の違いから、いくつかの独自性が見られます。日本では、伝統的な美意識(例えば仏教的思想、集団協調性)を尊び、個人の創造性のみならず他者との調和や社会全体への貢献といった側面が重視されます。哲学的な対話や現場での内省を重視するアプローチで既存文化に配慮された伝統技術の革新、慎重に持続可能な社会を目指す傾向にあります。一方、海外では、個人の独自性や表現の自由を尊び、大きな価値観の変化に基づく新しい価値の創造が重視されます。よりダイナミックで大胆な試行錯誤のプロセスを強調し、既存のルールを壊すことや新しい視点を重視するアプローチで主にスタートアップにおける技術革新やグローバル市場で競争力を持つ革新的な製品の開発と結びつく傾向があります。

同じ自己起点であっても、伝統や調和を尊重する日本のアート思考、変化や個人の表現を尊重する海外のアート思考ではビジネスやイノベーションへの適用や影響等に違いが生じています。

参考資料

  • 秋山ゆかり, 阪井和男. (2020). 「アート思考はブームになったのか?―デザイン思考とアート思考の社会的受容」, 『デザイン学会誌』, 66(2), 123–130.
  • 延岡健太郎. (2021). 『アート思考のものづくり』, 日本経済新聞出版.
  • 山本薫, 長谷川敦士. (2020). 「アート思考の教育への活用方法研究」, 『日本デザイン学会研究発表大会概要集』, 67(1), 45–48.
  • Reckhenrich, J., Anderson, J. & Markides, C. (2008), The strategy of art. Business Strategy Review
  • Whitaker, A. (2016). Art thinking: How to carve out creative space in a world of schedules, budgets, and bosses. 
  • Jacobs, J. (2018). Intersections in Design Thinking and Art Thinking: Towards Interdisciplinary Innovation.
  • Whittaker, A. (2020). Art thinking: Unleashing your creativity to transform work and life (不二淑子(訳)(2020).『アートシンキング―未知の領域が生まれるビジネス思考術』,ハーパーコリンズ・ ジャパン)
  • Eraslan Taşpınar, Ş. (2022). Design Thinking and Art Education.
  • Liggett, S., Earnshaw, R., & Townsley, J. (2023). Creativity in Art, Design and Technology.

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