ナッジ

安部浩次

ナッジ(Nudge)という言葉を聞く機会が以前に比べて増えました。行動経済学で用いられる概念で何かしらの仕掛けを用いて人を軽く刺激することで強制することなく対象者が望ましい行動を自発的にとるよう促すことを意味する言葉です。注意や合図のために人の横腹を肘で軽く突くという本来の意味から転じて用いられています。提唱者として知られるリチャード・セイラー教授は行動経済学への貢献から2017年のノーベル経済学賞を受賞しています。そこから3年経った現在(執筆時)、ナッジという概念は社会に広く浸透したことに加え、コロナ禍で人々が行動変容を求められることになり更なる注目を集めたのでしょう。実際、2017年4月に環境省のイニシアチブの下で発足した日本版ナッジ・ユニットの取り組みもセイラー教授のノーベル経済学賞受賞により後押しされる形で活発になり、2018年度以降は行動経済学会と連携し幅広い分野の課題解決に向けてナッジに関する取り組みを募集し表彰するというベストナッジ賞コンテストも開催されています。コロナ禍においては、2020年5月1日から6月1日にかけて「新型コロナウイルス感染症対策における市民の自発的な行動変容を促す取組(ナッジ等)の募集」と題して応募を受け付け、優良事例を公開するという取り組みも行っています。このような事例がニュースで紹介され多くの人がナッジを意識する機会も増えたのでしょう。

しかしながら、何らかの仕掛けを用いて人を動かすというのは誰しも考えることです。あえてナッジという用語を使う場合、そこには何か特別なものがあるのでしょうか。これに関して、セイラー・サンスティーン(2009)を見てみましょう。

われわれの言う「ナッジ」は、選択を禁じることも、経済学的なインセンティブを大きく変えることもなく、人々の行動を予測可能な形で変える選択アーキテクチャーのあらゆる要素を意味する。

ここで選択アーキテクチャーというのは人々が意思決定を行う文脈の設計の少し洒落た言い回しです。要するに人々が何かしらの意思決定をする際にどのような選択状況を与えるのかということは設計すべきことであると言っているわけです。ナッジはそのようなもののあらゆる要素というわけですから随分と広く曖昧な概念になりますが、選択の自由が保証されている点と直接的な金銭インセンティブを大きく与えないという設計がナッジをその他の仕掛けと分けるポイントになるのでしょう。そして、重要なこととしてナッジは人々の行動を予測可能な形で変えるという点があります。

わかりやすい選択アーキテクチャーの例として、セイラー・サンスティーン(2009)から次の二つを見てみましょう。一つ目は、男子用小便器に焼き付けられたハエの例です。これがある場合、男性は用を足す時にそこに狙いを定め飛沫の汚れが大きく減ります。別にハエを狙わなくてもいいわけですが、それによってはっきりした目的ができることからうまく行くナッジとなっています。背景には目立つものに注意を引くという行動特性があります。もう一つは、ある大学の教室のドアの例です。そこには押して開けるドアにぎゅっと掴むようにできている取手がついています。この場合、学生が講義をそっと抜け出す際にドアを引いてしまい注目を集めるということが起こります。この背景には人間は受け取る刺激とそれに対する反応の認知的なギャップを嫌うという心理学で刺激反応適合性と呼ばれる特性があります。いずれの事例も結果が人間の行動特性から予測されます。前者は飛沫汚れを防ぐという目的からは特性をうまく利用した例、後者はドアを開けるという目的からは特性をうまく利用できていない例です。

ナッジは行動特性を予測に利用します。そのために様々な行動特性が行動経済学、心理学などの行動科学において研究されています。そして、人間の行動を効用最大化(効用と呼ばれる数値が高くなる選択肢を選ぶ)という選択のモデルを用いて考察する経済学者が様々な行動特性を取り入れた効用最大化に基づく予測と効用を用いた厚生評価に基づいて選択アーキテクチャーの評価を行うようになりましたが、そのような比較的新しい研究スタイルが普及する過程でナッジという言葉が生まれたのでしょう。今はナッジを活用した保険商品なども世に出てきました。今後の展開に目が離せません。

最後に、もう少し知りたい読者のためにいくつか読み物を紹介します。一つ目はセイラー教授がノーベル経済学賞を受賞した際に私が神戸大学社会科学系の同窓会誌である凌霜に書いたものです。彼の貢献を説明する際にナッジについても書いています。二つ目は室岡(2018)です。国内屈指の行動経済学者がナッジを用いることの留意点および限界について丁寧に解説しています。三つ目は経済セミナー2020年6・7月号です。ナッジについて気鋭の学者達による鼎談と論考が載っておりとても参考になります。

  • セイラー, R.H.・サンスティーン, C.R. 遠藤真美訳(2009)『実践行動経済学』 日経BP社
  • 安部浩次(2018)「2017年ノーベル経済学賞」『凌霜』 2018年1月号
  • 室岡健志(2018)「ナッジ:公共分野における適用可能性および留意点」『行政&情報システム』 2018年2月号
  • 「ナッジで社会は変わるのか」『経済セミナー』 2020年6・7月号, 日本評論社

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