情報の粘着性
小川 進
70年代以降、製品開発でユーザーが革新的アイデアの発信元となる場合があることが知られてきている。実は、科学機器や医療器具あるいは情報システム用アプリケーションといった製品分野では多くの製品イノベーションがユーザーによって行われていたのである。そこでは、ユーザーが製品の試作品まで開発していたという。
そのようなユーザー・イノベーションが起こる1つの要因が、「情報の粘着性」だと言われている。情報の粘着性とは、局所的に生成される情報をその場所から移転するのにどれだけコストがかかるかを表現する言葉である。そのコストが高い時、粘着性が高いという。この概念はマサチューセッツ工科大学(MIT)のフォン・ヒッペル教授が提唱したものである。
事実、ユーザーのニーズ情報の中にはメーカーがどんなに市場調査を行っても、くみ取れないものがある。例えば、医療用のカルテを電子化した開発プロジェクトがその例である。開発を担当したメーカーは、ユーザーである医師から、利用頻度に応じて表示画面の色が変わる電子カルテの開発を依頼された。その病院の医師は診察の際、患者の病気の状態や来院頻度をカルテが手垢でどの程度汚れているかで判断していたのである。この医師の提案がなければメーカーは電子カルテの画面を、画一的な白にする予定であったという。
このようなニーズ情報といった情報の粘着性を高める要因としていくつかのものが挙げられている。1つは情報の種類、もう1つは、情報の使い手の属性、そして最後に移転される情報の量である。 情報の種類の例としては、すでに言葉や数字になっているような知識(形式知)は、そうでない知識(暗黙知)よりも移転しやすいというものを挙げることができる。また、情報の使い手の属性の例としては、数学の基礎知識がある人は物理の勉強するのに難しさを感じないだろうが、そうでない人が物理を勉強するのに苦痛を感じるというものを挙げることができる。移転すべき情報の量についてはそれが多くなればなるほど、それだけその移転にはコストがかかるというのは容易に理解できるだろう。
以上のようないくつかの要因で、ニーズ情報のような製品開発に不可欠な情報が、時に特定のユーザーやユーザーの活動場所にへばりついていて、そこから離れない(粘着性が高い)場合がある。そのような情報を製品に活かせるのは、ユーザー自身しかいない。このように、メーカーでは生み出せないユーザー・イノベーションがあることを「情報の粘着性」という視点は我々に教えてくれる。
では、ニーズ情報の粘着性が時に高く、そのような場合、ユーザーに積極的にイノベーションに貢献してもらう必要があるとしたら、メーカーの製品開発にはどのような新しい方法が必要になってくるのだろうか。
現時点でもニーズ情報の粘着性が高い場合を想定した製品開発の方法をいくつか考えることができる。まず第1に、自身のニーズを明確に表現できたり、製品の試作品まで作成できるほどの知識を持ったユーザーを効率的に見つけだす手法を確立することである。その手法として近年、リード・ユーザー法という手法が開発されている。
第2に、ユーザーが自分のニーズを形として表現できるツールを開発することである。例えば半導体のASICの開発にはユーザーがCADを使って作業する過程が巧みに組み込まれている。
最後に、ユーザーが自身のニーズを明確に表現できる教育プログラムを開発することである。ある家電メーカーの試みでは、大学生向け携帯端末の開発で、複数の大学生グループにマーケティング調査の手法を学ばせるプログラムを開発している。そのプログラムの終了後、相互に他方を調査させることで携帯端末に対するニーズの発見を行おうとしているのである。
マーケティング調査手法をすでに勉強している学生は、そうでない学生よりそれだけ自身のニーズを表現したり、引き出したりすることを容易に行うことができる。そのような学生を早期に育成するプログラムを開発し、製品開発に活かそうというわけである。いずれの手法にしても、メーカーの思い込みや一般ユーザーからの聞き取りだけで新製品の機能を確定し、それについて市場性を調査するという従来型の手法が採られないところがここでのポイントになる。
Copyright©, 2003小川進
この「ビジネス・キーワード」は2001年5月配信の「メールジャーナル」に掲載されたものです。