コトバの戦略的思考

 宮原 泰之

私の主要な研究分野はゲーム理論であり、それを応用して組織の経済学に関する研究も行っている。数理モデルを作って数学的な分析をしている。よって、研究室に並んでいる書籍は数式が登場するような専門書がほとんどである。

今回、神戸大学MBAに興味を持つ読者を想定して「研究スタッフが選ぶオススメ図書」を執筆してほしいとの依頼を受けた。「できる限り、平易な表現で執筆」し「一般書店で比較的容易に入手可能」な図書が望ましいとの条件が記されていた。数式なんか登場するようなものや数式がないとしても小難しい専門書はダメだということである。また、自分が書いた本を紹介してはいけないという制約もある。

研究室の本棚を見渡すとこの条件を満たすものは数少ない。私の研究分野のゲーム理論と関連しており一般読者にも楽しめそうなものはこれしかない。

梶井厚志 『コトバの戦略的思考―ゲーム理論で読み解く「気になる日本語」―』 ダイヤモンド社、2010年。

著者の梶井厚志先生は世界的にも著名なゲーム理論家である。執筆当時は京都大学経済研究所の教授であった。私が大学院生の頃から憧れる超一流のゲーム理論家である。

この本は今から13年前の2010年に出版されたものである。当時日常的に使われていたいくつかの日本語表現を取り上げ、なぜこれらの「コトバ」を多くの人が使っているのかを戦略的思考で解釈している。文法的にはおかしい表現や本来の意味とは異なる使われ方をしているコトバが日常的に使われている理由を考えるというものである。

本書全体を通じて梶井先生の「ボヤき」とも言えるような文体で進んでいく。まえがきも「よろしくお願いします」の意味がわからないというお話から始まる。そして「よろしくお願いします」は「あいまい戦略」とでも言える戦略的意義があるのではないかという考察へと進んでいく。

私も梶井先生を見習ってところどころにボヤきを紛れ込ませつつ本書を紹介しているところである。本書の構成は以下のとおりである。

第1章:日常コトバ編
第2章:マニュアル系コトバ編
第3章:新型・若者型コトバ編
第4章:経済コトバ編

各章でさまざまなコトバが取り上げられているが、それらは今でも日常的に使われるものばかりである。また、コトバの使用の戦略的解釈から派生させ、経済学の概念やビジネスの問題を紹介している。

例えば「よろしかったですか」というコトバは日常的に使われる場面では「しっくりこない完了形表現」であると指摘する。レストランで店員が注文を復唱している状況を想像すればこのコトバのしっくりこなさを想像できるであろう。このコトバをウェブで検索すると多くの人がこの使い方にイライラしていることが伝わってくる。一方で「よろしかったですか」が戦略的に有効な状況もある。昔よく通っていた立ち飲み屋に久しぶりに立ち寄ったら店員に「ビールにする?キリンでよかったよね?」と言われるとうれしくなり「また来よう」となるわけである。ちなみに梶井先生はキリンビール好きである。「キリンでよかったよね?」は経済学では長期的関係におけるインセンティブの問題と関連する戦略であると続く。ここは「キリンにしますか」ではダメな場面で、相手のことを覚えていることをシグナルとして伝える「キリンでよかったよね?」が最適なのである。

コトバが広く使用されている状況とはゲーム理論でいう「均衡」状態であると解釈できる。つまり、安定状態にあるのである。みんながそのコトバを使うのであれば自分もそのコトバを使うのが最適になっているのである。自分は他にもっと適切な表現があると考え、逸脱してそんな表現を使ってもコミュニケーションはうまくいかず得にはならないことが多い。こういったことが本書では平易な文章で説明されている。

アカウンタビリティ、インバウンド、イノベーション、インセンティブ、サステナビリティなど挙げればきりがないが多くのカタカナ用語が使用されている。がんばれば適切な日本語が当てられるのではないかと思われるものも多い。昔流行ったコモディティ化、最近流行りのAI、DX(デジタルトランスフォーメーション)など私には正確な意味がわからないものであるが、安定的に使われている。私はどちらかと言えばカタカナ用語はできるだけ使わない派である。

コトバの使用の問題は実を言うとビジネスにも関連するものなのである。社内用語、社内隠語、業界用語を想像すればコトバの問題であると気づくはずである。

よい企業文化を持っている企業は業績が高い傾向にあることは経験的になんとなく感じていることではないだろうか。企業文化の学術的定義は省略するが、企業内言語(社内用語)は企業文化の構成要素の一つとして考えられている。企業内言語は組織内のコミュニケーションを効率的にするだけでなく、企業のビジョンを共有し同じ方向に向かって全社員が努力することを可能にするのである。

企業文化に関する組織の経済学的研究の紹介については以下の2つを挙げておきたい。『コトバの戦略的思考』とともに一読をおすすめしたい。

レイ・フィスマン、ティム・サリバン(土方奈美 訳) 『意外と会社は合理的: 組織にはびこる理不尽のメカニズム』 日本経済新聞出版、2013年、第7章。
新原浩朗 『組織の経済学のフロンティアと日本の企業組織』 日本経済新聞出版、2023年、第A-11章、第A-12章。

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