スタートアップって大事というけれどいざ自分でやるのは大変という話 -『スタートアップの経済学』-

 原 泰史

2022年現在の私はどうやら、イノベーションのひととか、データサイエンスのひととか、デジタルトランスフォーメーション(DX)のひととして捉えられているように思います。が、実は「大学発」スタートアップ出身だったりします。キャラクターが混線するので、属性は小出しにするに限ります。

私が前回神戸大学に居たのは学部生の頃でした。そして大学で勉強しながら、ITスタートアップ(ITベンチャー)で働いていたのでした。私が働いていたITスタートアップは、2000年代当時の言葉でいうとレンタルサーバサービス、2022年現在の言葉でいうとクラウドプロバイダーでした。当時SNSがあれば、Linked In やFacebookでキラキラとした日常を書き連ねられるようなスタートアップ兼神戸大学生な生活を送っていたかというと…まったくそんなことはありませんでした!

寮の友人と甲子園球場に阪神戦を見に行く約束をしていたら、突然会社からの電話が。大阪の某所にあったデータセンターにお客様がハウジングしている(預けている)サーバーに不具合が出たというので、友人に断りを入れて六甲台から六甲道まで山を下り、JRに飛び乗り現地に急行、サーバーにディスプレイとキーボードとマウスをつなぎ、ソフトウェアのトラブルかハードウェアのトラブルか問題の切り分けを行い、お客様へと報告。数時間掛けて対応が終わり甲子園球場に向かうと、すでに藤川球児が火の玉ストレートを投げており、センター赤星がナイスキャッチを見せる終盤。若干イライラしている友人と大学の寮に戻るという一日の終わりを迎えた日もありました。

別の日では、サーバトラブル対応が深夜まで延び、ほぼ誰も居ない梅田地下ダンジョンの中途に、ロールプレイングゲームの隠し宝箱のように現れる餃子の王将に一日を救われる。ということもありました。残念ながら、もう閉店してしまったようですが。

こんな感じに、私が六甲台で学ぶ抽象化された社会科学の経済学や経営学の世界と、私がスタートアップの人間として実行するビジネスとの間には、まるで阪神電車と阪急電車との間の距離のような、大きな違いがあったように思います。付言しておくと、当時の20代の私は「現実のビジネスではこんなこと永久に起きないのに、学問って何のためにあるんだろう?」とも考えていました。そんな時期が私にもありました。若さとは恐ろしいです。

それから15年ほど経ち、2022年10月の『凌霜』にも書いたようにいろいろとあったのですが、神戸大学の教員として六甲台に戻ってくることになったのでした。そして、ビジネススクールの講義も担当することになったのでした。ビジネススクールで教えていると、やはり理論と実践を、西宮北口から今津に至る阪急今津線のように繋ぎ合わせるのはなかなか大変だなあと思います。スタートアップ時代の私と違って、今の私は理論サイドもそれなりには知ったのですが、それでも、現実の社会で起きていることと、それを学術研究として昇華させることとの間には、当時と同じくらいのギャップがあるように思います。

関西学院大学経済学部の加藤雅俊教授が今年出版された『スタートアップの経済学– 新しい企業の誕生と成長プロセスを学ぶ』(有斐閣)は、こうした理論と実践のギャップが往々にして現れがちな、スタートアップについて主に経済学の観点から非常に洞察深くまとめられており、かつ、とても読みやすいテキストブックになっています。スタートアップにまつわる、ひと、もの、金、情報。あるいは、スタートアップの諸取り組みを支援あるいは阻害しうる諸制度。こうした個々のファクターがどのようにスタートアップの成立やその成長に寄与するのかについて、トピックごとに事細かく解説されています。スタートアップについては様々な取り組みが産学官で進みつつありますが、個人的(あるいはN=1)な経験や、思い込みや、願望が得てして市民権を得やすいことを、私はスタートアップ時代に痛感してきました。シリコンバレーあるいはテルアビブの劣化コピーを単純に特定の地域で町おこし的に構築するのではなく、現状のナショナルイノベーションシステムに照らし合わせたスタートアップの在り方を考える上で、絶好のテキストだと思います。現在スタートアップに関与されていない方も、これから会社や大学(!)を飛び出してスタートアップを創造される予定の方も、是非ともお読み頂ければと思います。

Copyright © 2022, 原 泰史