経営学の危機

 國部 克彦

経営学研究科に籍を置いて30年経つが、研究者として痛切に感じることは経営学の危機である。そして、その名の通りの書物が刊行された。

デニス・トゥーリッシュ『経営学の危機:詐術・欺瞞・無意味な研究』(佐藤郁哉訳)白桃書房、2022年

著者はイギリス・サセックス大学教授、訳者は一橋大学名誉教授で、いずれも経営学研究に長年携わってこられた方々である。しかし、著者は、この書の冒頭で、「この分野の学術ジャーナルがおおかた到底読むにたえない代物だ」、「掲載された論文の多くがとるに足らない瑣末なテーマしか扱っておらず、他方で非常に重要な問題を無視し続けてきた」(p.2)と述べ、経営学の現状を厳しく批判する。しかも、経営学は企業経営に何らかの貢献がなければならないはずだが、「ほとんどの経営者は私たちが書いた論文を読むことはないし、世間のたいていの人々は、そもそもその種の経営研究というものがこの世に存在していることすら知らない」(p.11)のである。まさに、身も蓋もない批判である。

なぜ、このようなことになってしまったのか。その理由は多々あるが、学術ジャーナル至上主義の弊害が大きい。研究者の業績は、学術ジャーナルへの発表論文数で測定されるようになり、ジャーナルのランキングがそのまま研究者のランキングになってしまう。そうすると、一流誌に採択されることが研究者の目的となり、既存の理論を使って、先行研究では扱われていないテーマを探して研究するようになる。そうなると当然、現在社会が直面している重大な問題は先行研究がないから後回しになり、学術論文で扱われる問題はどんどん減っていく。さらに、方法論はどんどん精緻化するように求められるから、些末な問題を精密な方法で分析する結果として意味のない論文を量産してしまうのである。

しかも、このような論文を経営の現場にいるビジネスマンが読むことはないから、論文の出版・流通がアカデミアの世界で閉じてしまい、社会に何の影響も及ぼさなくなってしまっている。これでは経営学者は何のために存在しているのか、分からなくなってしまう。これは経営学だけの現象ではなく、経済学はもっと早くからこのような傾向が生まれていた。社会科学は学問を精緻化すると社会から遊離する。これは宿命のようなものだが、私たち研究者が何とかしないと、ますます世間から見放されていくだけである。

このような状態を打破するために、同じ訳者による下記の書物が参考になる。

アルヴェッソン&サンドバーグ『面白くて刺激的な論文のための リサーチ・クエスチョンの作り方と育て方―論文刊行ゲームを超えて』(第2版)(佐藤郁哉訳)白桃書房、2024年。

この本では、問題設定の2つの方法として、ギャップスポッティングと問題化があると説明する。ギャップスポッティングとは、文字通り、これまでの研究の不十分な点(research gap)を見つけ出し、それを改善していく論文である。これは業績を早く上げるには効率的な方法ではあるが、こればかり繰り返していると、学問の縮小再生産になってしまう。その結果が「経営学の危機」である。

これに対して問題化は、20世紀を代表する哲学者ミシェル・フーコーが提唱する方法で、理論的立場の根底にある前提に対して挑戦する研究である。フーコーは、問題化の視点から、現代社会の前提を掘り崩して、近代社会に対する全く新しい見方を提供したのであるが、現在のようなジャーナル至上主義ではフーコーのような研究は生まれにくくなっている。

しかし、私たちは現状を嘆くだけでなく、経営学者としてこの現状を少しでも変えていかなければならない。そのためには、日本の経営学をリードする立場にある私たちが、経営学の理論的立場の根底を常に検討しなおし、実務の最先端で問題になっていることに果敢に挑んでいかなければならないだろう。

昨年末に逝去された加護野忠男先生が退官記念講義で話されたテーマが「規範的経営学のすすめ」であった。欧米文献の訓詁学的経営学を批判して、現実のデータに依拠した実証的な経営学の構築を目指し、それに成功した若き加護野先生が最後に到達した地点が「規範的経営学」であったことは、経営学が実質的な学問として生き残れるかどうかの岐路がそこにあることを示している。

Copyright © 2025, 國部 克彦