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研究スタッフが選ぶ、オススメ図書

リスクと文化  高尾 厚 教授

 

巷間「リスクなければ、保険なし」といういわれが通用していますが、これは正確には誤りです。諸般の理由から、たとえリスクがあってもそれに対する保険が現存しえないことは稀ではありません。理由の1つは、保険が「大数の法則」を利用した制度なのに、往々にして当該リスクがこの法則を満すことは困難であることです。

理由はこれだけに限定されません。保険が合理的に選択される更なる重要な条件として、当事者としての人間がリスクを「正視」する必要があります。リスクを人間がどう捉えているかについては、古来より多くの論者によって、「百家争鳴」の感があります。原初的には、「期待利得仮説」、「期待効用仮説」が有力でしたが、最近では心理学の発展形態としての「プロスペクト仮説」を支持する論者も増えつつあります。要は、確率現象の主観的把握に際して「文化」の果たす役割を軽視できないということです。以下、リスクと文化に関して、興味深い洞察を加えた異分野の2冊を紹介してみたいと思います。

酒井泰弘『リスク社会を見る目』岩波書店、2006年。

(寸評)著者は日本を代表するリスク学の一大権威で、博覧強記の人です。7つの章から成る本書は、多極的な視座から、リスクの全貌を読み解いていきます。具体的に、序章部の第1章を承けた第2章が総論部を担当します。そこでは、「リスク観は時代と風土と共に変遷する」という大命題を提示し、そこからの論理的帰結として、「リスクの定義も変化する」という小命題を導出します。そしてリスクの最新の定義づけをします。すなわち、「ひとつの行為から出る結果がひとつと限らず、一般に複数個の結果が生まれることを指す。----実際にどの結果が生まれるかは、そのときの状態や条件次第である。重要な点は、リスクが人間の生活維持や社会経済に対して、プラスとマイナスとの両側面をもつことである。そして、リスクが大きいというのは、結果間の分散が大きく、また結果自体の規模やレベルが大きいことを意味する。」と。

第3章以下が各論です。すなわち、第3章では、大相撲の「巴戦」が取組力士間で「公平」ではないことを証明します。この事実は、日本人が確率を錯視する文化をもつことを示します。「ベルヌーイの『コイン投げゲーム』」と題する第4章では、経済学において期待利得理論よりも期待効用理論が現実的であるものの、いわば「稀有事象切り捨ての性質」を取り込んだリスク「評価理論」も現代心理学で有力であることを指摘します。いずれにしろ、この章で「『リスク社会を見る目』を養うには、ものの本質に迫る鋭い直観が必要」なことを主張します。第5章のタイトルは「凹型人間か凸型人間か−人間の性格もリスク観もいろいろ」というものです。ここで、リスク回避型人間類型の効用関数は凸状態なのに対し、リスク愛好型のそれは凹状、リスク中立型は直線状を描くという通説を披露するとともに、「同じ人が保険に入り宝くじを買う」ときの効用関数を、フリードマン・サベッジ流の双こぶラクダ状でなく、凹状曲線の上下シフトで表現する方が自然だ、との自説を展開します。

早世した詩人「金子みすずの澄んだ目−浜の祭りは海のとむらい」という第6章では、ゲーム論を援用します。ここでは、「大漁ゲーム」と銘打った漁師間の、非ゼロ和2人ゲームが、補獲されるイワシの利害状況も考慮したゼロ和3人ゲームと等価であることを論証します。本章では結局、「人間を自然の一部とみなし、人間と自然環境との相互交流を視野に入れた『学際的で文理融合型』のリスク学を作り上げる必要」を強調します。最終章の「色則是空、空則是色−ベルリンの壁は崩壊したが−」は比較体制論です。ここでは、ソ連・東欧の社会主義体制崩壊の主因が倫理観と勤労意欲の欠如という「モラルハザード」にあることを指摘します。そして、「リスク社会で深い共感と長い信頼関係を築くことが、最善のリスク対策」である、という教訓的な結論を導きます。
 

田村祐一郎『掛け捨て嫌いの保険思想−文化と保険−』千倉書房、2006年。

(寸評)本書は、40年近く保険学分野で研鑽を重ねた筆者の思い入れの深い論文8本を加筆修整して一冊にしたものです。著者の基本的な問題意識は、「日本には、なぜ、保険が生まれなかったか」というものです。そして、「日本に特有のリスク観・リスクの実態、リスク対応策があり、それらが保険の発生を阻み、明治期の保険導入後も独特の受容の仕方を見せる一因」ではないか、さらには「リスク・マネジメントが日本企業になかなか定着しない要因にもなっている」と結論づけます。

以下、この結論に至る道程を適宜、なぞることとします。書名と同じ「『掛け捨て嫌い』の保険思想」と銘打った第1章で、著者は、まずいわゆる「掛け捨て嫌い」層の実数を推定します。ある損保に係わる調査によれば、保険料支払は馬鹿らしいと回答した人の占率は約32%でした。生保の場合、掛け捨て型希望者占率は73.2%でした。かくて、著者は日本において「『掛け捨ては損』と考える階層が根強く存在することはかなりの確度をもって推定」できるとします。とりわけ「明治以降約百年にわたる実績にもかかわらず、損保業界にとっては『“掛け捨て”を嫌うわが国の国民性』は、とうてい乗り越え得ない障壁であった」と推測します。次いで「掛け捨て」保険が嫌悪される主因として「リスク評価」を挙げます。ここで、いわゆる「給付反対給付均等の法則式」(P=wZ;P=保険料、w=危険率、Z=保険金額)において、通常、右辺の主観的評価が低い−特に、危険率wを過小評価する日本人が多い−と主張します。他方、保険金額に対応する予想損害額については、消費者が自身で算定するという「自主性」に欠けていることを指摘します。第2、3章は、第1章の「続編」としての位置づけです。「貯蓄の思想と備蓄の思想」と銘打った第2章では、日本人のリスクに備える際の「高」貯蓄と「低」備蓄とのアンバラスな対比の原因追及を試みます。

原因の第1は「貨幣購買力に絶大な信頼感」を持っていたこと。第2は、日本経済の生産力と流通機構の効率性への信頼感。第3は、生鮮食品を毎日小出しに買うという買い物習性と食品の鮮度を評価するという食習慣の存在。第4に「うさぎ小屋」では食料備蓄のスペースがないこと。第5に、備蓄は単に物品を保管するだけではなく、新旧入れ替えに手間暇がかかること。この咎は、石油ショックの折、課されます。低備蓄主義は、いわゆる「カンバン方式」が持てはやされることにもつながります。そこで著者は「日本的経営論者が唱える、日本の経営は長期的視野に立つという主張は、物事の一面しか見ていない恐れがある。」と指弾します。

第3章の表題は「江戸の火事」というものです。ここでは「日本人が安全、つまり事故や災害の発生しないことを前提に思考し行動する傾向をもつ」という著者のいわゆる「100%安全主義」の命題の例外例を採り上げます。それは「火災に対する江戸時代人の行動様式」です。当時、滞在していた外国人の手記によれば、火災に対して「日本人がいかにも沈着冷静、泰然自若、ときには快活にすら見える有様」だったとのことです。著者は、柳田国男に従って「江戸の住民の中には火災によって失う資産をほとんどもたず、半面、火災によって一時的にせよ職を得る階層がいたこと」をその理由の1つに挙げます。いま1つは、災厄を契機にして「偏在した富の再配分」−一種のポトラッチ−がなされたことを挙げます。

「言霊・リスク・保険」と題した第4章では、「日本人の『リスク観』と保険との関係を、経済的要因よりむしろ社会的・文化的・宗教的等々の非経済的諸要因−すなわち『保険思想』論−の観点から探る」ことを試みます。得られる結論は、「日本の『言霊』的発想が『危険』という言葉よりも『安全』という言葉を選ばせること、『安全』という言葉が『変化』のない状態を指し、それが日本人の宗教や自然観に関わること、そしてこうした安全観が保険の基礎にある発想とは対照的で、しばしば保険を忌避させる傾向をもつ」ということです。第5章「呪術と保険と危機管理---文化現象としての保険」での問題意識は、「『保険』と『リスク・マネジメント』とを近代西欧の『合理性』を象徴する制度として捉えることの妥当性を西欧の社会・文化・宗教という幅広くかつ深い理解の上に論証する」ことです。結論的には、「近代社会が呪術の世界から脱し、数量的・科学的管理の手法を開発してきたことも確かな事実である。近代資本主義が生成するには、ウェーバ−のいうようにこのプロセスが不可避であり、そしてそれに成功したのは近代西欧のみであった。保険はそうした『合理性の勝利』の表象であり、不確実な未来を統御する方法を与えた。保険は確率論の応用として未来に『数字』を与え、それによってリスクを処理する方法に外ならず、呪術とは対蹠的な方法である。」という命題を得ます。

第6章「宗教と生命保険」の問題意識は、故椎名幾三郎教授の「宗教も保険も『不幸な偶然の来訪』により『不安を一掃して』『安心立命を売ることを業とする』点で『同業』である」の指摘に同感し、「宗教と保険の関係について小考を重ね、教授の論考から一歩でも先に進むこと」を目指すものです。得られる結論は「保険は元来は経済的技術であって、それ故に計算合理性の側面を強くもっているが、半面、それが導入される地域や時代の文化、社会等の非経済的要因の影響を受ける---。とりわけ生命保険の場合には、それが死に関わることから様々なレベルで宗教や呪術といった精神世界に抵触する。」というものです。

第7章「助け合いとは何か?−保険と互酬性−」では、「筆者がこれまで述べてきたことを整理し、そして『相互扶助とは何か』という最も基本的な問題を考え直す」、という問題を設定します。筆者はポランニーらの経済人類学者と援助行動の心理学とを要約したのち、「一般の人々が『助け合い』という言葉に対して抱く感覚は『善意』に基づき些少でも『犠牲』を払って気の毒な他人を『援助』すること」と規定し、それが業界の考える助け合いとは相違する可能性が大きいことを指摘します。そして、日本への生保導入期に「貯蓄話法」「投資話法」は通用したが、「助け合い」話法はそうではない、と結論します。 最後の第8章「家族・会社・保険−『なぜ、江戸期に保険が生まれなかったのか』考−」では、「民度が相当に高かったと思われる江戸時代に、深刻な経済的打撃を与えるリスクに対して、なぜ、日本人は保険のように有効な方法を開発」できなかったのか、という問題設定をします。その解答として、「伝統的に日本人の思考回路は、まずもって自前の家業や家産こそ重要で、それを守るため家連合を組むという性格のものであった。それ故、他人の不幸に際しても、ギリギリまで米も銭も出ていかず、ましてや事前に共同でリスクに対処するための共同準備財産などまず存在しなかった」ことを挙げています。
 
寸評者の著書一覧
(寸評者の執筆論文一覧は、ホームページをご覧下さい)
 
  • 近見正彦・吉澤卓哉・高尾厚・甘利公人・久保英也『新・保険学』有斐閣、2006年。
  • 高尾厚『保険とオプション−デリバティブの一原型−』千倉書房、1998年。
  • 水島一也(編著)高尾厚(著)『保険文化』千倉書房、1995年。
  • 高尾厚(監訳)『ファ−ニー・保険経営学』上・中・下,生命保険文化研究所、1994-1999年。
  • 玉田巧・高尾厚(共訳)、R.L.カーター(著)『保険経済学序説』千倉書房、1994年。
  • 高尾厚『保険構造論』千倉書房、1991年。
  • 高尾厚(監訳)『ファーニー・保険市場論』生命保険文化研究所、1991年。
  • 田村祐一郎・高尾厚(編著)『現代保険学の展開』1990年。
( Copyright © , 2007, 高尾厚)