Home -> MBA Square -> 研究スタッフが選ぶ、オススメ図書  
 
研究スタッフが選ぶ、オススメ図書

経営分野 准教授 松嶋登

 

実践のディシプリンとしての経営学

経営学は、学際的領域であると言われる。他方、だからこそ理論的に依拠する基礎学問(ディシプリン)を持たねばならないとも言われる。極端に言ってしまえば、現実の経営実践を理解するために、既存の基礎学問が作り上げてきた科学的知識を適用する応用学問が、経営学だということになる。しかし、だとすれば経営学は、基本的に独自の科学的知識を持たないことになる。もちろん、既存の学問から得られる知見を分かりやすく説明する意義はある。経営問題を解くために既存の知識が利用できれば、それでいい。そういう意味で、経営学が独自の科学的知識を持たないことに問題があるわけでもない。正直言えば、かつて私自身もそう考えていた。

だが、そのような理解でいいのだろうか?つまり、基礎学問の翻訳が、経営学に求められる役割期待なのだろうか?経営学の研究者として、経営学が独自の科学的知識を有する学問であって欲しいという願望からそう言っているのではない。今回、改めて紹介したいのは、ばりばりの実務家であったチェスター・I・バーナードが、ニュージャージー・ベル電話会社の経営者として在任中、執筆した『経営者の役割(1938年, 新訳1956年)』である。言うまでもなく、近代経営学の始祖である氏の代表作であり、わが国でも議論が尽くされてきた古典である。だが、時代を超えて新たな含意が見出されるのが古典の古典たる所以だし、唯一の解釈を求めることではなく、場合によってはオリジナルの著作を超えた知見を引き出すことが学説史研究の意義である。例えば、庭本佳和の『バーナード経営学の展開: 意味と生命を求めて(2006年)』を見れば、いかにバーナードの議論が今なお我々に豊かな含意を与えうるかが分かる。

そして、今回、私はバーナードの著書の付録を再読することを、お勧めしたい。同書の付録は、神戸大学の一般大学院(研究者養成)における基幹科目のひとつである「経営管理特論」のカリキュラムを抜本的に見直す際に、加護野忠男先生によって経営学の根本問題を考えるための教材として取り上げられた。私自身、新たな、そして極めて刺激的な理解を得ることができた。加護野先生の読み方と必ずしも一致するものではないが、私にとってバーナードによって示され、構想されていた経営学は、様々な基礎学問で既に蓄積されてきた科学的知識を寄せ集めて成立する応用学問という位置づけなどではなく、「実践」という固有の分析対象を有した、社会科学における新たなディシプリンであることを宣言しているものであるように思えたわけである i

以下は、なるべくバーナードの議論に沿って、私なりの意訳を纏めておくが、ご関心をもたれたならば是非、原典を手に取っていただきたい。そして、著書全体を通じて、彼が構想した、実践のディシプリンたる経営学がいかなるものであったのかを、考えてみていただきたい。

実務家バーナードは、自らが経験してきた経営実践を理解する上で、「真実」を明らかにするとされてきた科学に不満を持っていた。もっと言えば、明らかに失望していた。現実を部分的に切り取ることによって成立する科学は、経済学、心理学、社会学、哲学(更には物理学などの自然科学)を含んで、様々な学問領域に及ぶ。だが、そうした科学で蓄積された諸理論を集め、すなわち学際的に検討しさえすれば、現実の経営実践が理解できるとでも言うのだろうか。到底そうは思えない。 そもそも、経営実践に関連する二つ、三つの学問を十分に学ぼうと思えば、それだけでゆうに一生を必要とするだろう。現実の経営実践に携わる実務家は、そんな悠長なことを言っていられない。現場はいつも時間的に切迫しており、直感を頼りに判断しなければならない。真実を明らかにするとされてきた科学は、こういう経営実践の事情をどれだけ考慮してきたのだろうか。

だが、本当の問題は、そんなことではない。そもそも、我々は水に関する科学的知識を知らずとも、水を飲むことができ、泳ぐことができ、さらには船で漕ぎ出すこともできる。こうした実践は、水に関する「真実」たる科学的知識に基づいて行われているのではなく、経験のうちに可能になっている。つまり、日常生活において、我々は、真実を前提にする必要などないのだ。経営実践を理解するためには、こうした日常生活のあり方を、分析の対象にしなければならないのではなかろうか。もし、それは科学的分析の資格を満たさないと言われるなら、もう結構。科学など、こちらから願い下げだ。

しかし、誤解をして欲しくない。ここで本当に言いたいことは、実践は科学が対象とするようなものではない、というようなことではない。そうでなく、むしろ科学は実践なのである。例えば、1+1=2は数学的には真とされる。だが、それはあくまで数学的に処理された、等価な単位が成り立つ限りにおいて、そうなのである。例えば、一単位のバターとバターカップ(きんぽうげ)を足しても、何の意味もない。つまり、科学もまた、真実を前提にした厳密な議論を行っているのではなく、何かしらのフィクション(仮構)を置かなければ始められないわけである。 だから、科学者の営みは実務家が日常的に行っている実践と、全く同じ論理で説明できる。経営実践も、科学的探究も、フィクション(あるいは理論的前提)を想定することで、可能になっている。ひとつだけ違うのは、実務家は、科学者のように分析前提がフィクションであることを覆い隠そうとせず、自ら仮構したフィクションを意識し、そのフィクションからいかなる有用性が得られるかに関心があることだ。

実践の学としての経営学は、このことを忘れてはいけない。知識の有用性は、けっして事前に明らかにされていないし、誰かに尋ねて答えが出るようなものでもない。そうではなく、自らの仮構したフィクションが有用であるかどうかを常に問わなければならない。 「真実」を明らかにすると信じてきた科学者にとって、このことは堪えられないことかもしれない。しかし、実務家は、こうしたことを無意識に行ってきた。だから、実践がフィクションを前提にしているということは、実務家にとって必要な知識ではないし、理解できないかもしれない。そうだとしても問題はない。この考え方は、真実を明らかにするというメタ・フィクションに囚われ、自らの知識の有用性に対する認識を失ってしまった科学者にこそ、求められるからである。



i ちなみに、学際的研究が、基礎学問分野で蓄積された科学的知識を寄せ集めてくることだという理解は正しくない。そうした理解は、科学的知識が何がしかの真実を写像すると考える限りにおいて成立する。だが、バーナードが示唆するように、科学がフィクションを仮構して知識を作り出している実践であるとすれば、科学的知識の寄せ集めは、現実の経営実践の理解を促進しないのはもちろんのこと、そこで仮構されているフィクションの有用性を検討するというもっとも重要な思考の妨げになりさえする。以下は、文化研究における金字塔と呼ばれる、ジェイムズ・クリフォードとジョージ・マーカスが編集した『文化を書く(1986年, 邦訳1996年)』の第一章の序論、しかもその冒頭で、クリフォードがフランスの哲学者ロラン・バルトを引用しながら記している内容である。

「最近、さかんに論じられている学際的研究とは、既成の学問が顔をつき合わすことではない(事実、どんな学問もそんなことは望んでいない)。学際的に事をなすには一つの「問題」(テーマ)を選び、そのまわりに二、三の諸科学を集めるだけでは不十分である。学際性とは、どの学問領域にも属さない新しい「対象」を生みだすところにこそある(原典、邦訳ともに1ページ)」

(Copyright © , 2011, 松嶋登)