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研究スタッフが選ぶ、オススメ図書

会計分野 准教授 堀口真司

 

CSRや環境経営など、企業が社会や環境へ配慮することが期待されるようになりつつあります。従来、企業は、株主のために利益を獲得することに主眼を置いてきましたが、その規模の拡大に伴って、従業員や消費者、地域社会、政府、NPO/NGO、自然環境など、さまざまなステイクホルダーへの対応が求められるようになってきました。では、現在、企業は社会や環境に対してどのように取り組もうとしているのでしょうか。また、なぜ、企業は社会や環境に配慮するのでしょうか。以下では、3つの文献を紹介しながら、こうした問いについて簡単に考えてみたいと思います。


國部 克彦, 伊坪 徳宏, 水口 剛(著)『環境経営・会計』(有斐閣アルマ, 2007年)

まず、取り組みの現状について、國部他(2007)『環境経営・会計』では、企業経営という現場において環境と経済を結びつけるための最新の方法が、環境と経済の両立という観点から解説されています。同書では、環境と経済が企業経営の現場で自主的に結びつく条件には、環境保全活動が企業の利益に直接的に結びつく場合と、社会的な名声が高まることによって長期的な利益に貢献する場合の2つしかないという認識のもとで、環境経営理念の設定や環境マネジメント技術の開発の必要性、さらに環境経営に取り組む企業を支援する市場の重要性が指摘されています。具体的には、環境経営にとって有益な種々の会計手法と、社会や環境に配慮しようとする市場の役割について、最新の動向が解説されています。つまり、同書では、企業が社会や環境に取り組み、それを市場が評価するという関係が、その前提に置かれているのです。それでは、本当に、企業や市場は社会や環境に配慮していくことになるのでしょうか。

 

谷本 寛治(著)『CSR−企業と社会を考える−』(NTT出版, 2006年)

これに対し、谷本(2006)『CSR−企業と社会を考える−』は、企業が社会や環境に配慮する動機として、「啓発された自己利益」と「経済性と社会性のバランス」という2つの考え方があることを指摘しています。前者は、社会や環境に良いことをすれば、長期的には自分の利益につながるとする考え方であり、後者は、経済性だけでなく、社会や環境も考慮した上でバランスをとり、全体的なパフォーマンスを高めるという考え方です。しかしながら、谷本(2006)は、前者に立つ限り、長期的な利益が見込めなければ取り組まれなくなり、また後者に立って既存の経済活動に社会や環境に関わる側面を付加するだけであれば、現在の社会的な期待に十分に応えきることはできないと述べています。こうした観点から、同書では、現在、企業に期待されている役割や責任とは何かを考えることによって企業のあり方そのものを見直し、新しい企業像を描き出そうとすることに焦点が置かれています。その背景には、個々人の自由な行動が、必ずしも社会全体の利益の増進にはつながらないという思想があり、むしろマクロな政策を推進する政府の役割が強調されています。つまり、政府には、国家としてのビジョンをもち、産業政策の中に社会や環境への配慮を位置づけるような、社会経済の仕組みを整備することが求められると述べられているのです。具体的には、企業や業界団体、政府、NPO/NGOなどがグローバルなレベルで協議を行い、マクロ政策を設定していくプロセスが紹介されています。

ここで、社会や環境への配慮について、啓発された自己利益の獲得を目指す、企業の自主的な活動として市場の観点から捉えるならば、それは比較的理解しやすいものとなるでしょう。一般に市場とは、財やサービスなどの効用(功利)を取引する場であり、その基礎には功利主義という政治思想があります。そしてこの功利主義とは、広義には、功利を一切の価値の原理とする思想であり、その源流には、快楽を求め苦痛を排除しようとする快楽主義という考え方があります。したがって、この快楽主義という観点からすれば、たとえば、現在の社会問題や環境問題は不安(苦痛)の原因と見なされ、こうした不安が取り除かれる程度において取り組みが実施されるものと予想されます。このように、功利主義的な説明は、現在の私たちには比較的理解しやすいものであることがわかります。

しかしながら、同じ功利主義という観点から、マクロな政策を通じて企業活動や市場を変革していくという発想を理解することは、幾分難しくなります。ここでのマクロ政策とは、企業や市場が社会や環境を配慮するような規制を設定することであり、それは、政府や企業、NPO/NGOなどによってある種の社会契約が模索されていることを意味します。たとえば、現在、最も有名な政策の1つにサステナビリティという概念がありますが、これは将来世代のニーズを損なわない程度に現在世代のニーズを満たそうというものであり、先ほどの功利主義の観点からも比較的理解しやすい論理です。それに対して問題は、そのような中で主張されはじめている動植物の権利を擁護するような考え方です。このような、人類から遠く離れた自然環境などは、単に功利という観点からは捉えることが難しく、そこには、人間の主観的な視点を超えたところから「他者」を理解していこうとする意図が潜んでいることを読み取ることができます。つまり、社会や環境への配慮に関する議論の難しさは、私たちが慣れ親しんでいる功利主義的な思想からは捉えきれない点、すなわち利他的な思考が錯綜しているところにあると言ってもよいでしょう(もちろん、功利主義では、一般に「最大多数の最大幸福」と言われるように、単純な利己主義が採用されるわけではなく、功利の帰属主体を最大限に確保しようとする、利他的な側面も含まれています。しかしながら、ここでは、現在の議論が功利の本質的な定義からでは捉えきれないところにまで拡張されようとしているため、利他主義を功利主義とは別個の思想として考えています)。

 

トルストイ(著), 原 卓也(訳)『人生論』(新潮文庫, 1979年)

そこで、次に、そのような利他的な思考の本質を理解するために、利他主義(愛他主義)について書かれた比較的理解しやすい書物として、トルストイの『人生論』を紹介しましょう。トルストイは『アンナ・カレーニナ』や『戦争と平和』といった作品で有名なロシアの文豪ですが、彼の利他的な精神に関する思想は、『人生論』という著書の中に結実していると言われています。トルストイは、同書の中で、利他性の現実的な形を「愛」という言葉で表現しており、それは自分自身よりも他者を好もしく思う感情であると定義しています。また、愛の大きさは、自己の利益を分母にとり、他者への愛をその分子とするときの、分数の大きさのようなものであると述べています。つまり、愛とは、それが自己犠牲を伴う場合にのみ愛となるのです。同書におけるトルストイの目的は、人間の真の生命、あるいはその幸福についての理性的な説明を提示することであり、そのような愛こそが、真の生命であると主張しています。なぜなら、唯一それが人間の生命の矛盾を解決してくれるものであるからです。

トルストイによれば、人間の生命の矛盾とは、個人の幸福に対する志向と、その不可能さの自覚との矛盾であり、それは、動物的な生命体の欲求は常に一定の限度で満たされてしまうようなものであること、また動物的な生存は一呼吸ごとに死に向かっているために、幸福を追求するための究極的な基礎としては置くことができないという矛盾です。このような矛盾に対しては、目に見える生命体以外に一切別の生命の可能性を認めず、人の生命を誕生から死にいたるまでの動物的生存と理解している現在の科学者の意見に頼ることも、また、来世における幸福を得るために、もっぱら現世において儀式の遂行を勧めようとする宗教家(パリサイの徒)の意見に頼ることもできず、ただ日々の生活を満たしている数限りない量の仕事や習慣に従って行動し、思考を停止してしまっているのが現状であると分析しています。トルストイは、このような現状の問題に対し、「他者」を愛する理性的な生命の存在を説くことによって、その解答を示そうとしたのです。
 それは、人間性と動物的個体としてのヒトとを区別することによって、人間の生命を動物的生存の中に見るのではなく、理性的な人間性の中に意識を置き、動物的生存の条件がそうした人間性から乖離することによって苦しんでいる「他者」への愛(迷いや苦しみの原因の究明とその根絶)の中に真の生命(生きる意味)を見出そうとする考え方です。したがって、これは決してヒューマニズムの域を出るものではありませんが、「欲求の1つに理性的な意識を向ければ、意識されたその欲求が生命全体を占領して、人間の全存在を苦しませる」(111頁)や、「愛は、それが自己犠牲であるときにのみ愛なのである」(137頁)といった思考は、人間性のある種の本質を表現したものであり、これはまた、社会や環境へ配慮しようとする現代社会の本質の一面をも言い表したものであるように思えるでしょう。

大事なことは、かつて啓蒙思想や社会契約説のもとで市民(ブルジョア)の権利が確保され、自由で自主的な活動が保障されるようになった出来事や、社会国家や福祉国家のもとで、ある程度、労働者(プロレタリア)の権利が擁護されてきたという出来事を、個別の独立した偶然的事象と捉えるか、それとも歴史的な傾向と捉えるかという点にあります。もし、そこに何らかの傾向を読み取り、またその中に現在の企業による社会や環境への配慮を考え合わせるなら、利他的な思考にも、無視できないほどの大きな説明力があることを認めざるを得ないように感じられるのです。

(Copyright © , 2009, 堀口真司)