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研究スタッフが選ぶ、オススメ図書

経営学分野 教授  原田勉

 

今回の書評で最初に取り上げるのは、仏教における「空」の思想に関する書籍です。仏教の本質とは、「縁起」であり「空」であるということがよく言われます。しかし、この「空」とは、まさに自然科学者、社会科学者として理論構築を行う場合、必ず念頭に置かなければならない根本的な概念であると考えています。私は宗教の専門家ではないので、ここでは宗教性を捨象し、純粋な哲学、認識論としての「空観」に焦点を絞り、関連文献の書評を試みたいと思います。

私がこの「空」という概念にはじめて関心を持ったのは、大学院生として米国に留学しているときです。あるパーティーにて、米国で活躍中の新進気鋭の日本人若手物理学者とお話する機会がありました。雑談のなかで、かれは突然、般若心経に興味があるという話題を切り出しました。「なぜですか」と尋ねると、「その内容はまさに量子力学の世界に他ならないから」という答えが返ってきました。

私はこの答えになぜか強い興味を持ちました。残念ながら、その若手物理学者にそれ以上の内容をお伺いすることはできませんでしたが、この一件以来、般若心経の内容に関心を持ち、いくつかの関連する書籍を購入し読んでみました。般若心経では、「空」や「縁起」が中心思想であるということは分かりましたが、それでは「空」や「縁起」とは一体何なのか。この点については正直なところ理解できませんでした。それはまさに禅問答のような論調で解説されており、何が言いたいのかが私のような素人には全く理解できなかったのです。

しかし、ここで紹介する著書に出会い、「空」とは決して神秘思想でもなく、非常に論理的で明快な概念であることを発見しました。それが、中村元著「龍樹」(講談社学術文庫)です。

中村元著 『龍樹』、講談社学術文庫、2002年.

(寸評)龍樹、すなわち、ナーガールジュナは、中観派の創始者であり、大乗仏教という一種の宗教改革のなかで、大乗仏教を理論的、哲学的に基礎づけた大思想家、哲学者です。本書は、ナーガールジュナが残した最も重要な文献「中論」の解説と、その翻訳から構成されています。サンスクリット語が読めない人は、中観派の思想を知るには本書を読むのが手っ取り早いでしょう。なお、英語訳の文献として、Chr. Lindtner著、”NAGARJUNIANA” というものがありますが、残念ながら絶版になっています。もし、この文献も図書館などを通じて利用可能ならば、本書と比較しながら読めば、一層理解が深まると思います。

本書の特徴は、禅問答ではなく、論理的に明快な形で「空」や「縁起」が解説されている点にあります。「空」の思想を最初に基礎づけたのがナーガールジュナであり、その後に続く仏教理論は、「中論」にかなり依拠しています。そして、その「中論」は難解な箇所もありますが、その論旨はかなり明快であり、禅問答のような記述はありません。それはまさに学問としての「空観」であり、神秘思想でも(絶対的存在を前提としないという意味で)宗教でもありません。中村氏の解説は、その豊富な文献知識からきわめて論理的なかたちでナーガールジュナの思想を体系化しており、それを読むだけでも「中論」のエッセンスを把握することができます。

では、「空」とは何でしょうか。本書を読めば、「空」とは、未来永劫に不変の本質というものはない、ということに尽きることが分かります。小林秀雄はその昔、「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない。」と記述しました。花の美しさという普遍的で永遠不滅な本質というものは存在しない。花の美しさは条件次第でどのようにでも変わります。もちろん、具体的な形態としての花は存在します。しかし、その背後の本質としての美しさなどは固有で永遠不滅なものではない。特定の状況、特定の時点では、花の美しさは多様なバリエーションで変化する。そして、次の時点では花は枯れているかもしれない。この世から消滅しているかもしれない。その美しさは未来永劫不変の存在ではありえない。これが本書を読んで私が理解した「空観」です。

たとえば、賃貸マンションがあったとしましょう。具体的な形としてのマンションは存在します。しかし、マンションに未来永劫住み続ける住人は存在しません。もちろん、いつも空室ではなく誰かが住んでいるときもあるでしょう。「空観」は、住人がいることは否定しないけれども、同一の住人が住み続けることはない、と主張しているのです。この賃貸マンションに相当するのが現実の世界であり形であり、「色」とか「法」と呼ばれるものです。そして、住人に相当するのが「実体」とか「自性」、「本質」と呼ばれるものです。そこから般若心経の有名な命題「色即是空、空即是色」が導かれるわけです。

この「空観」の論理的な根拠となっているのが、「縁起」です。縁起とは時間的因果関係ではなく、現象間の相互依存関係を意味します。中論では、「AならばB」、「AでないならばBでない」、という文言が繰り返し表れます。もし、「AならばB」を因果関係として捉えるのであれば、「AでないならばBでない」、という命題は一般には成立しません。それが成立するのは、BがAの必要十分条件のときのみです。単なる必要条件であれば、Aでなくても、Bが成立することはあります。たとえば、「日本人ならば人間である」という命題から、「日本人でないならば、人間ではない」という命題を演繹することはできません。

このような因果関係ではなく、各要素が相互に規定し合っている相互依存関係が、中観派の主張する「縁起」に該当します。だから一方の要素、条件が変化すれば、当然ながら他方の要素、条件は影響を受け変化します。だから、「AでなければBでない」、という命題が導かれるわけです。たとえば、水の構成要素を見た場合、水素があるならば酸素がある。しかし、水素がなければ(水を構成する)酸素はなくなる(すでに水ではなくなるため)。このような相互依存関係が縁起になります。だから、世界に存在する無数の要素は絶えず変化にさらされており、そのなかの一つでも変化すれば、全体はすでに昨日の全体とは異なったものになります。こうしたことから、固有の自性、本質は存在しない、という「空観」が導かれるのです。

以上が、私が本書を読んで理解した「空観」であり「縁起論」です。私の作文能力が低いため、読者の皆様が以上の記述をよくご理解されたかどうか自信はありません。しかし、少なくとも私のなかでは、きわめて論理的にクリアに「空」や「縁起」を理解することができました。そして、こうした理解が得られたうえでまず思い起こされたのが、次のカール・ポパー著「歴史主義の貧困―社会科学の方法と実践」(中央公論新社)です。

 

カール・ポパー著 『歴史主義の貧困―社会科学の方法と実践』
中央公論新社、1961年.

(寸評)本書は、20世紀最大の哲学者であるカール・ポパーによって著された著名な文献であり、歴史主義と呼ばれる社会科学、特に、マルクス主義に対するきわめて鋭利な批判が展開されています。本書の鍵となる主張は、科学とはすべて「条件つき予測」にすぎない、というものです。つまり、「ある条件の下で、AならばBが成立する」と主張されるわけです。ここでの「AならばB」とは、縁起論の意味ではなく、因果関係を指します。科学の仕事とは、因果関係を特定することであり、それは特定の条件の下でのみ成り立つ因果関係になります。

しかるにマルクス主義に代表される歴史主義とは、「あらゆる条件」の下で成立する因果関係を主張します。マルクス主義では、具体的には、唯物史観がそれに該当します。科学哲学者であるポパーにとっては、「あらゆる条件」の下で成立する因果関係、命題などは、少なくとも科学の世界では存在しないことになります(テストによって反駁されていない命題という意味において)。そして、歴史主義の貧困とは、かれらが主張する命題が成立する「特定の条件」を指摘できていない創造力の欠如、貧困さを指します。したがって、科学的社会主義という言葉に含まれている「科学」とは、決して本当の意味での科学ではあり得ないことになります。それが科学であるためには、命題が成立する条件が特定され、反証可能な命題にまとめられている必要があります。こうした作業を怠り、多少の人的犠牲をも正当化しかねない歴史主義の命題は危険極まりない、というのがポパーの主なメッセージになっています。

このような歴史主義の貧困さは、プラトンのイデア論に遡ることができます。イデアとは本質の世界であり、そこでは、現象の背後に未来永劫不変の本質が存在することが主張されています。たとえば、花の背後には美という原型が実在していることになります。ポパーはこれを本質主義と呼び、そのような考え方が誤りであることを明快に論じています。そして、ここに私はナーガールジュナの「空観」との関連性を想起せざるを得ないのです。ナーガールジュナの「空観」も結局のところ、本質主義への批判として位置づけることができます。固有のイデアなどは存在しない、という主張が「空観」なのです。本質が特定できるのは、それが成立する条件を特定した場合のみです。それを特定しないのは、ポパーのいう歴史主義の貧困に他ならないのです。

したがって、コントロールされた実験が不可能な社会科学を志すのであれば、ことさら本質主義や歴史主義という禁断の果実を食することがあってはならないと思うのです。私自身、社会科学者として、現象を見て、その背後の論理や本質は何なのかを考える、という作業は必要不可欠です。しかし、その背後の論理や本質とは、あくまでも特定の条件の下でのみ成立するということにもっと注意を向けなければならないのではないか。ナーガールジュナの「中論」、カール・ポパーの「歴史主義の貧困」を読むたびに、そのような自戒の念を禁じ得ないのです。

(Copyright © , 2006, 原田勉)