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過剰品質

梶原武久

最近、日本製品の過剰品質が問題とされることが多い。過剰品質とは、製品やサービスの品質水準が、要求される水準と比べて高いことを指す。使い切れない機能を満載する携帯電話、本来の機能には問題がないのに、わずかな傷や汚れのために不良品とされる部品の山、食品スーパーで売られる形の整った野菜、整備の行き届いた高速道路など、過剰品質ではないかと思いたくなる事例は少なくない。こうした過剰品質はなぜ生み出されるのであろうか。ここでは、3つの要因を指摘する。

まず、日本人の性質や日本文化によって過剰品質が生み出されると考えられる。日本人は、細部にこだわりながら、完璧なものづくりを志向する。見えない部分だから手を抜くという発想はあまりない。また、こだわりをもって造られた「逸品」に対しては、「いい仕事をしていますね」と最大限の讃辞が送られる。このように日本には、過剰品質を生み出す文化的な下地があるように思われる。

また、消費者の品質要求がエスカレートすることによって過剰品質が生み出される。高品質の製品を経験してきた日本の消費者は、よほどの訴求がない限り、品質水準の劣る製品を買おうとしない。そのため消費者の品質要求は高止まりする。また、消費者の多くは、不良品には敏感であるのに対して、高品質の価値を実感し難いため、コストを無視して、過剰な品質要求をしてしまう傾向にある。こうした消費者心理が、品質要求をエスカレートさせ、過剰品質をもたらす。

当然ながら、企業側にも過剰品質をもたらす原因がある。これまで多くの日本企業は、品質要求の高い日本の消費者を満足させるために、切磋琢磨してきた。こうした日本企業同士の同質的競争は、高品質の日本製品を生み出し、国内外での日本製品シェアを拡大することに成功してきた。同質的な競争の結果として、日本製品に対する全体のパイが拡大するため、競争に参加した企業には、それなりの成果がもたらされてきた。これが品質をめぐるこれまでの日本企業のビジネスモデルであったが、こうした同質的競争は、過剰品質を生み出しやすい。

このように日本人の性質や日本文化、消費者の品質要求のエスカレーション、日本企業同士の同質的な競争によって、過剰品質が生み出されてしまう。「神様」である消費者の品質要求に応えることは、基本的には正しいことであるから、やり過ぎに対して、ブレーキが利きにくい。

そもそも過剰品質は問題とされるべき現象なのであろうか。過剰品質については、それを肯定する主張と否定する主張の両方がある。肯定派は、「過剰品質は、細部にもこだわりをもつ日本人のものづくり精神の現れであり、他国には模倣ができない強みである」、もしくは「消費者の高い品質要求に応えようと努力してきたことが、製品や工程革新の原動力であった」と指摘し、安易に過剰品質を問題視すべきではないと主張する。一方、否定派の主張はこうである。まず、過剰な品質により、様々なコストが発生すると指摘する。過剰品質によるコストは最終的には消費者が負担しなければならず、大きな社会的なムダを生み出している可能性がある。また、品質への固執が、日本企業の競争力を低下させる危険性を持つことが指摘される。1980年代に日本の半導体メーカーは、高品質DRAMにより世界一となったが、その後、主要な用途が大型コンピュータからパソコンに変化する中で、「10年以上保証できるDRAM」にこだわったことが仇となり、今日では、米国、韓国、台湾メーカーの後塵を拝している。同様の構図が、携帯電話、パソコン、家電などでもみられる。パソコン市場のデルコンピュータや携帯電話市場のノキア、エリクソン、モトローラなどが、日本製より品質的には劣る安価な製品で、グローバル市場で高いシェアを誇っていることを考えると、「日本製品の高品質は、なんのための品質なのか?」と素朴な疑問として思ってしまう。

肯定派の主張も否定派の主張も一理あるため、過剰品質に対して適切な対応をとることは容易ではない。ただ、いずれの主張も、普遍的に妥当性をもつわけではなく、業界、戦略、製品特性に依存するものである。従って、これまで通り、単に消費者の品質要求に応えるというのではなく、少しだけ自社の状況やこれまでの取り組みを省みることによって、自社の「品質」が今後どうあるべきかについて、もう一度問い直してみることをお勧めしたい。

 
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